小説

『橋のエピソード』川瀬えいみ(『雑炊橋』(長野県))

 数年前――三十歳になる直前、健にも、結婚を考えた女性がいたことはいたのである。目鼻立ちのはっきりした美人で、性格も明朗快活。健と違って社交的。言いたいことは、はっきり口にするタイプ。
 仕事以外のことでは頭を休ませていたい健には、こちらが気を回さなくても、欲しいものを欲しいとはっきり言葉にしてくれる彼女は、非常に付き合いやすい女性だった。
 健は、彼女を雑炊橋に連れてきて、橋に伝わる物語を話し、
「どう思う?」
と尋ねたのである。
 おそらく、彼女は、健のプロポーズを期待していたのだろう。
「私なら待てないわ。そんな曖昧で頼りない約束。そんないい加減な約束をする人の誠意を疑う。待てて、三ヶ月ね」
と答えてきた。
 それは、三ヶ月以内にプロポーズしろという督促。
 率直で、曖昧な点がなく、明快そのものの要求。ある意味、彼女は、彼女自身と健の人生に対して、極めて誠実な人間だった。
 健は、彼女にプロポーズしなかった。彼女は健から離れていった。
 康子なら、『天晴れ。実に賢明な判断だわ』と彼女を褒めそやしたに違いない。

 それからの健は仕事一筋。
 自分は恋や結婚というものに夢や希望を抱けないタイプの男なのだと考え、それまで以上に、仕事に邁進してきたのである。
「僕が設計したビルや施設が僕の子供。いつか橋梁設計もしてみたいと思っている」
 妹や母には、そう告げて。
 初めて母から雑炊橋の由来を聞いた時、信じ合って結ばれた恋人たちの逸話より、健の心を捉えたもの。それは、険しい断崖に架かる雑炊橋の美しい姿そのものだったのだ。

 その年の別荘滞在から帰った日。
 母を実家に送り届けた後、買ってきた病院職員たちへの土産を病院に運んでほしいと康子に頼まれて、健は久し振りに父の病院に足を踏み入れた。

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