小説

『橋のエピソード』川瀬えいみ(『雑炊橋』(長野県))

 健の妹の康子は、医師にならずに家を出て独立した兄に代わって婦人科医になり、今では父の病院で働いている。
 仕事柄、不妊や育児に苦しむ女性に接することが多いせいなのか、あるいは個人的な恋の経験からか、あまりに実感がこもっている妹の非難に、健は、『何かあったのか』と尋ねるのもためらうほどだった。
 そこに、
「兄さんは、待たせてる女の人なんていないでしょうね!」
 まなじりを決した康子が問い詰めてくる。
 健は、妹が加えてくるプレッシャーにたじろぎながら、顔の前で両手を左右に振ってみせた。
「そんな人がいたら、三十半ばのいい歳をした男が、毎年、母や妹への家族サービスをしてるわけがないだろう」
 高校を卒業し自動車免許を取得して以来、母と妹の別荘送迎は健の仕事になっていた。この仕事を始めた当時は、まさかその仕事が十年以上続くことになるとは、考えてもいなかったが。
 三十半ばを過ぎた今でも、健の家族は母と妹だけなのだ(父は相変わらず多忙で、家族旅行には不参加のままだった)。
「あー……。それもそうか」
 康子が、兄の答えを疑いもせず頷く。
「兄さん、結構もてそうなのにねえ。顔は十人並みでも、優しいし、建築デザイナーとして成功もしてる」
「まあ、こればかりはね……」
 苦笑いを浮かべた健に、康子がまた圧力をかけてくる。
「呑気に笑ってる場合じゃないわよ。男にだって、適齢期ってものはあるのよ! 若い頃にしか成し得ないことがあるの!」
 三十半ばにもなった兄を頭ごなしに怒鳴りつけ、精子運動率や精子正常形態率と加齢の関係や、育児が大変な体力と精神力を要する重労働であることについて語り始めた妹から、健は何とか理由をつけて逃げ出した。そうして、橋の全貌を眺められる場所に移動する。

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