小説

『穂に出いで』斉藤高谷(『狐女房』(石川県))

 父がいて、母がいて、暖かい部屋があって、温かい食事が出てくる。振り返ってみると、自分でも眼が眩むほど煌びやかな時間だった。硝子細工で飾られたシャンデリアのような時間だ。
 けど、そのシャンデリアは鎖を断ってしまえば簡単に落ちてしまうものだった。そして鎖は、意外なほど呆気なく断つことができた。

 その日、僕と弟は家の中でかくれんぼをしていた。台風が近付いていたか何かで外は大雨で、出掛けられなかったのだ。
 子供が二人きりでする遊びの常で、段々と熱がこもってきた。始めは風呂場や押し入れなど単純な場所に隠れていたところに〈何としても相手に見つかるまい〉という気持ちが生じ始めた。たかがかくれんぼ、と鷹揚に構えられるほど当時の僕は大人ではなかった。むしろ兄としての面子を守ることに必死で、物事の分別をつけられなくなっていた。
 だから、入ってはいけないと言われていた母の部屋の戸にも手を掛けることができたのだろう。
 特に鍵なども掛かっていない引き戸は簡単に開いた。けれど、いや、だからこそ、卵の殻を割ってしまったような罪悪感がそこにはあった。
 僕は、生じた隙間から中を覗いた。外は雨降りで曇っているはずなのに、部屋の中は目映いほどの光で満ちていた。やがて目が慣れる。部屋の中にある家具などが、光の中に浮かび上がってくる。
 部屋の真ん中には母がいた。彼女はこちらに背を向け、床の上に座っていた。窓に叩きつけられる雨を眺めていたのかもしれない。僕はその後ろ姿を見つめたまま動くことができなくなった。フローリングに置かれた白い脚。広がったスカートの裾。それから、白と黄金色の毛で覆われた尾。
 初めはクッションか何かかと思った。けどそれは、時折ゆっくりと左右に動いた。生きている。少なくとも、生きている者の一部ではあるようだった。
 綺麗だ、という気持ちが、恐怖の奥から湧いてきた。僕はその尾に――母の、白と黄金色で覆われた尾に意識を捉えられ、動くことができなかった。だから、声を掛けられるまで、弟が近付いていることにも気付けなかった。
 何も知らない弟は、大きな声で僕を呼んだ。或いは何度も呼び掛けていて、僕があまりに反応しないので、耳元で怒鳴るような声を出したのかもしれない。いずれにせよ、それは母を振り向かせるには充分だった。僕はその時の母の顔を今でもはっきりと覚えている。いつも微笑みを湛えていた顔が、恐怖と悲しみに引き攣っていた。
 母の薄い唇が開いた。けれどそこから言葉は出てこなかった。何か言おうとして、言葉を探し、けれど見つからず、唇を震わせることしかできないようだった。やがて言葉の代わりに、母の両目から涙がこぼれ出した。

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