小説

『穂に出いで』斉藤高谷(『狐女房』(石川県))

 父は二択に弱い人だった。コインを投げれば決まって父が選ばなかった面が出たし、交差点で迷った時は選んだ道が必ず遠回りになった。
〈運がない〉といえばそうなのだけど、それ以上に父には状況を見定める眼がなかったのではないかと僕は思っている。少なくとも母のことに関しては、注意深く観察してさえいれば、選択を誤らずに済んだはずだ。正しい選択がされていた場合、僕らはここにいないわけだけど。

 僕が生まれるずっと前のある晩、父は夜中に突然激しい尿意に襲われた。用を足し、トイレから戻ってみると、同じベッドで眠る人影が二つに増えていた。床に就いた時は、いや、部屋を出た時には、たしかに布団の膨らみは一つだった。そもそも夫婦二人しか家にはいないのだから、二つになるはずがない。
 父は心臓を掴まれたような気分になりながらも次の瞬間には布団を剥いでいた。自分の布団に潜んでいる何者かの存在を許せない気持ちが恐怖に勝ったのだ。
 だが、怒りは一瞬で全くの無になった。そこへ遅れて、今度は混乱が湧いてきた。
 ベッドには、父にとって妻と呼べる女性が二人寝ていた。こう書くと父が一夫多妻ででもあるようだけど、そうではない。父には奥さんが一人しかいなかったし、眠っている二人の女性は全くの瓜二つ。同一人物に見えた。
 父は二人を揺り起こした。目覚めた女性二人は、それぞれが自分こそ本物だと言い張った。父にもどちらが偽物かという判断はつけられなかった。どちらも、どんな質問にもスラスラと答えた。夫婦しか知らないはずのことにも迷う素振りはなかった。
 やがて父に決断の時が来た。わかっているのは、妻が本来は一人しかいないということだけだ。双子だなどという話は聞いたことがない。ならば、今目の前にいるどちらか一方が確実に偽物である。カーテンの向こうでは空が明るくなり始めていた。腕組みをして考え込む父の前で、左側に座っていた妻がくしゃみをした。そのくしゃみの仕方が、父にはいつもとは違って見えた。
 そして僕らの母が選ばれた。

 母の元となった女性には身内がいなかったから、母が彼女に成り代わったところで何か問題が起こるわけでもなかった。だからこそ、母はその女性を選んだのだと思う。それでは本物の彼女がどうなったのかといえば、海外で達者で暮らしていることは今の世の中すぐわかる。SNSに上げられた写真の中で外国人男性と顔を寄せ合っている彼女は、母と同じ顔をしているけれど、僕らの母親ではない。
 あの〈選択〉をして以降、まるで歯車が噛み合ったかのように父の人生が滑らかに回り出した。仕事でいくつもの成功を収め、同期の誰よりも早く出世した。高くて広いマンションに住み、僕が生まれ、弟が生まれた。
 父は、これまでしてきた全ての選択が正しかったと思ったことだろう。そう思えるぐらいの幸せに包まれていたに違いない。一方の僕らといえば、生まれた時からそんな環境が当たり前だったから、特別に自分たちが幸せだなんて意識もしなかった。失った今だからわかるけど、本当の幸せというのは、幸せについて考える必要のない状況を言うのだ。

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