小説

『流れる』白川慎二(『舌切り雀』)

 おばあさんは喋りながら思い出します。おじいさんが、おチュンに顔を寄せて、そうかそうか、などと嬉しげに相槌を打っていたことを。おばあさんにはおチュンの声はただの雀の鳴き声にしか聞こえませんでした。青空に羽ばたき、逃げるそぶりも見せずに、おじいさんの手の平に戻りくるおチュンの様子を見ていると、本当に言葉が通じているようで、おばあさんはなんとも気味が悪かったのです。おじいさんとおチュンの蜜月ぶりと、自分たちの間に子供がないことは、なにか関係があるのだろうかなどと妙な考えが湧くこともありました。
 だから、私は舌を切ったのだ。
 おばあさんは唐突にそう思い当たりました。ぶつでもなく、羽を折るでもなく、舌を切ったのはおチュンを黙らせるためだったのだ、と。
 障子に点々と散った赤い血の跡。でも、それ以上におばあさんは、おチュンの目に盛り上がった涙の方をよく覚えているのです。羽ばたいて、木々の間におチュンが消える刹那に、一滴の涙がきらりと宙に光りました。
「私はおチュンの涙を見た時、私は総身の肌が粟立つのを感じた。その時は、それがなぜなのか分からなかったけど、今分かったよ。あれは大昔の記憶が頭を過ったからさ」
 そこで、おばあさんは息をすうっと吸い込んだ。
「じいさん、あんた、人生で一番古い記憶って、何か覚えているかい?」
 おじいさんは闇の向こうを見るような眼をして「咄嗟には思い出せないな」と言いました。
「そうかい。私は覚えている。六歳ぐらいの頃さ。遅いと思うだろう。随分とぼんやりした子供だったからね。その日、近くの家へ使いに行った。そうしたら、軒先に子犬がいるじゃないか。ふわふわした、辺りが明るくなるぐらいに真っ白の子犬さ。連れて帰りたいと思って、その家のじいさんに頼んだら、『持ってきな』ってまるで大根か何かをくれるみたいな調子で譲ってくれたよ。嬉しくってねえ。胸に抱いて、この犬と暮らすんだ、大事に大事にして、毎朝餌を上げて、一緒に散歩に行って、ってあれこれ想像してさ。犬の可愛さに気持ちがぐんと動いて、私は生まれて初めて、自分がこの世にいるってことに気付いた。家に帰ったら、母親が私を見て、ついておいでって言う。口以外はまったく動かさない不興気な喋り方さ。嫌だったけど、他にどうして良いか分からなくて、私は影みたいに母親の後に従った。なんだか母親のその背中を見ると、変な感じがしたんだ。上手く言えないんだけど、この人は本当に私の母親なのだろうか、赤の他人なんじゃないのかっていう疑りみたいなものが拭えなかった。それどころか、この人はもしかすると物の怪の類かもしれない、べろりと皮が剥けて内から毛むくじゃらの化物が出て来たらどうしようって、そこまで想像が膨れ上がった時、川についた。縁から三歩も歩けば急に深くなる、流れの速い川さ。途端に、母親の手が伸びてきて子犬を攫った。そうして、その川へ放り込んじまった。深みへ向けて弧を描いて、子犬は飛んで行った。ぽしゃんって小さい音がして子犬は浮かんでも来なかった。母親は私の方を向いて、『二度とこんな真似をするんじゃないよ。今度同じことをしてご覧。あんたを川へ投げ込むからね』って声も荒げずに言って、踵を返した。私はその背中に体当たりして、倒れ込んだ母親の頭に河原の大きな石を振り下ろした。母親は声も立てずに絶命して、私は子犬を追って川へ入っていった。私も子犬同様、急流に呑まれてそれきりさ。作り話じゃないよ。私の魂は本当にあの日そうしたのさ。そして、私の抜け殻は、母親の後ろをとぼとぼ追って、家路についた。道すがら、一歩ごとに地面に零れては弾ける涙を見ていた。手足は冷たくてたまらないのに、眼だけが溶け出したのかと思う程に熱くて、次から次へ涙が出たね。こうして、私は私の魂と出会った日に、そいつとはぐれちまったのさ」

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