小説

『流れる』白川慎二(『舌切り雀』)

 風がさぁっと竹林を鳴らし、松明の火が揺らします。二人の影も大きく伸び縮みしました。おばあさんは不思議に思いました。この翻る影のように自分は激しく取り乱していまうかと思っていたのに、心は静謐なままです。今、誰かが「これでお終い」と目の前に真っ黒な幕を下ろしたとしても、自分はそれを静かに受け入れるだろう、という諦めにも似た気持ちがおばあさんを強くしているのかもしれません。ふと、おばあさんの内に僅かな欲が閃きました。どうせ終わるのなら腹の中に凝っているものを底浚えしてしまいたいと思ったのです。
「じいさん、もうちょっとだけ聞いてくれるかい」
 おじいさんは「ああ」と応えました。
「思っていることがあるなら全部外に出せば良い」
 おじいさんはおばあさんの方へと向き合って言いました。その表情は嬉し気でした。
 「私は私の魂とはぐれて、ずっと抜け殻として生きてきた。何を聞いても何を食べても、すべてが内にぽっかりと空いた穴の中へ落ちて消えてしまう。こんな私をもらってくれて、ずっと一緒にいてくれたじいさんには感謝しているよ。でも、本当のことを言うと、私は子犬を川へと捨てられた時、もう誰も、何にも好きにならないって決めたのさ。いや、決めたのじゃない、そのようにしか生きられなくなってしまったんだろうね。何かを大切にしていると、脇から筋張った、あの母親の手が伸びてきて、それを攫っていっちまうようなきがして仕方ないんだ。おかしいよね。あんたの所に嫁に来て、母親からは遠く離れたっていうのに。私はまだ怖いんだ。私は母親に怯えて暮らしてきた。憎んでもいたよ。それなのに、いつの間にか、おチュンにあんなことをしてしまって、私は母親と一緒になっちまった。だから、つづらを開けて、毒虫が足元から這い上がって来た時、腹のどこかで『これでいいんだ』って思った。母親と一体になった私が毒虫に喰われて死ぬ。胸が空くような最期だよ。でも、どうしてだか死なずに、こうしてあんたに話を聞いてもらっている。変な気持ちさ。てっきり死んだと思ったのに生きている。この気持ちは、子犬と出会って別れたあの日にどこか似ているね。おや、どうして、じいさんが泣くんだい?」
 おばあさんは、おじいさんの涙でべちょべちょになった顔を見て驚きました。
「ばあさん、わしの方こそ悪かった。わしはずっとばあさんが何を考えているのかを知りたかったのだ。いつも不機嫌そうで誰にも馴染まず、たった一人で生きていくと決めてしまったみたいな態度のあんたを、わしは一体どうしたら良いのか分からなかったのだ。わしはあんたの本当の気持ちを知りたかった。でも、どこかでそれを知るのが怖いとも思っていた。いつか、ばあさんの方から話してくれる。それまで待つのだ。事を急いてはいけない。そんな言い訳めいた繰り言を並べて、あんたと向き合う日を、日一日と延べて来た。そこへおチュンが来て、わしはあんたのことを忘れてしまった。言葉をかければ応えてくれるおチュンのことが可愛くて可愛くて、もうあんたが何を考えているかなんて気にならなくなってしまったんだ。おチュンが舌を切られた日、だから、真っ先にわしは自分を責めた。わしは自分の都合の悪いことから目を背けて、見たいものだけを見て暮らしてきたんだ。だから、あんたもおチュンも辛い目を見たんだと。わしは、自分の弱さと向き合って、ばあさんとも向き合う、そう決めてここへ来た」
「そうだったのかい」

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