小説

『さまよえる月光』滝村透(『竹取物語』)

 束の間の沈黙の後、
「かぐや、と言います」
と彼女は答えた。「えっ?」と思わず訊き返してしまうほど僕は驚いた。
「かぐや?」
「……はい。かぐやという名前です。周りからはかぐや姫と呼ばれています」
 刹那、空間がねじれて、アスファルトの地面と満天の星空が反転してしまったかと錯覚した。しかし、足元にあったのは遥か彼方の恒星ではなく単なる人工物だった。これは現実だ。
 彼女がかぐや姫? そんなことがあるだろうか。この人は冗談を言っているのかもしれない。しかし彼女の表情は真剣そのものだったし、その言葉は明確な迫真性を帯びていた。
「かぐや姫、か。いい名前ですね。僕は、竹田マサトです」
 彼女が名乗った後だと、自分の名前がひどく平凡に感じられた。
「じゃあ、マサト君、って呼んでもいい? 私、できれば自然に話したいの」
 彼女は恥じらいながらそう言った。とても素敵な人だ。自然に話したい、ということは、敬語を使わずに話したい、ということだろうか。もしかすると、彼女は『姫』と呼ばれているくらいだから、いつも周りの人から敬語で話されていて、それに疲れているのかもしれない。
「いいよ。自然に話そうか。……あのさ、君はどうして僕なんかと話そうと思ったの?」
「私、いつの間にかこの世界のどこかに迷い込んでしまって、どうすればいいのかわからないの。だから、この世界のことを誰かに教えてもらいたくて」
 彼女の瞳が僕を真っ直ぐに見つめていた。敬語で話さなくなると、彼女を自分と同世代の女の子と同じように感じた。
「この世界のことか。正直、ここに生きている僕もまだ、この世界のことなんてわかっちゃいないけど……。多分、君のいた世界との共通点もあるんじゃないかな。その延長線上というか。理不尽なこともいっぱいあるけど、悪くない世界だよ」
 僕はそう言っていた。彼女の望んだ答えだったかはわからないが、彼女は安心したように微笑んだ。
「よかった。私、この世界で誰かと話せてよかった。終わりが来る前に」
「終わり?」
と僕は訊いたが、何となく彼女の答えを察していた。
「私、月から来たの。驚いた?」
「ん……ああ、驚いたよ。本当に」
 しかし、僕の芝居は下手だったようだ。
「珍しい人。もっと驚かれるかと思ってた。……でも嬉しい。受け入れてもらえた感じがして」
 僕は曖昧に返事をして、別の話題を振った。それから彼女とすっかり打ち解けて、会話が弾んだ。夏の夜の静寂に僕らの声だけが響く。ふと空を見上げると、月が綺麗だった。
「月に帰るのはいつなの?」
「……三日後。だから三日間、マサト君の家に居させてもらってもいい?」
「いいけど、僕の家狭いよ?」
 それでも彼女は構わないらしい。僕は思う。このとき彼女は何を考えていたのだろう。どうしてこの時代にいて、この場所に迷い込んできて、この僕に声をかけたのだろう。僕の中で彼女は、いつだって過去形だった。隣にいても、一緒に喋っていても、紛れもなく同じ時を生きていたとしても、僕の中では彼女は常に過去のもので、現在は存在しないものだった。

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