小説

『もりそばをすする間だけ』いいじま修次(『まあだまだわからん』(山口県))

 康彦は礼を伝えて料金を払うと、カウンターからあまり離れていないテーブル席で厨房に横顔を向けて座り、いただきますと言ってもりそばを食べ始めた。
 そばをすすり、学食内の全ての動きが止まり、姿を現した若い女性が康彦に視線を向ける。
 すすり終えると、学食内に動きが戻り、若い女性の姿は消える。
 康彦はその動きを何度か繰り返すと、短く切ったそばを一本、指で掴んで席を立ち、カウンターに向けて歩き出した。
「悪いけど、このお兄さんを中に入れるよ」と、ミエが厨房にいる女性達に伝え、康彦を招き入れた。
 康彦は一礼して厨房の中を進み、大きな釜の側の、女性が姿を現していた場所の前で足を止めた。
「……」
 掴んでいたそばを唇の端に挟み、それを吸い込むと同時に目の前に現れた若い女性の手を、康彦は両手で握った。
 驚いた表情を浮かべる女性。
 そばはすすり終えているが女性の姿は消えず、二人を除いて学食内は動きを止めている。
 康彦は優しく真っ直ぐな眼差しを女性に向け、話しかけた。
「ありがとう。貴女が見ていてくれた事、嬉しかったです」
「……」
「どんなに苦しい時でも、貴女は止まらずに前を見て生きていましたよね。だからこの過去はもう思い出にして、前へ進みましょう。後ろを向いてここで止まっているのはやめましょう。貴女には、前向きの素晴らしい人生がありました」
「……」
 康彦の言葉に、女性はゆっくりと頷き、綺麗な笑顔を見せた。
 微笑み返す康彦の手を離れ、女性は厨房の中を懐かしそうに見回し、ミエに目を止めて驚きの表情を浮かべた。
 振り向いて視線を向ける女性に、康彦は頷きで答えた。
女性は瞳を潤ませてミエの手を握り、そして想い残りの無い晴れやかな表情をすると、ミエから離れて康彦にありがとうと口を動かし、厨房から見えなくなった。

 動きを取り戻した学食の中。視線を向けて頷く康彦に、ミエも頷き返し、自身の手を重ね、温もりを感じた。
 康彦は厨房にいる女性達に失礼しましたと頭を下げ、カウンター近くのテーブルに戻り、もう一度いただきますを言うと、動き続ける賑やかな学食の中で、もりそばをすすり始めた。

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