「吉田君…?」
背後から声がかかる。人を落ち着かせる、優しい声音に一瞬で胸が高鳴る。そこに立っていたのは涼香だった。高校時代、友人に誘われて何となく入った陸上部で彼女と出会った。長く真っ直ぐな栗色の髪、物静かで大人びた印象を与える彼女だが、意外と抜けたところも多いことに気付いたのは付き合い初めてからのことだった。
突如あふれ出した幸福な記憶に押し込められていた暗闇を見失う。しびれたような頭の片隅にかすかに違和感を覚える。
「涼香…どうしてここに?」
「どうしてって、一緒に走っていたでしょ?」
ああ、そうか。今日は部活もない休日だからと一緒にジョギングに涼香が誘ってきたのだったか。
自主練という名目で一緒に過ごす時間をつくろうとするのは涼香の常套手段だった。
「大丈夫? 顔色が悪いようだけど…」
心配そうな顔で涼香が尋ねてくる。
「いや、大丈夫、何でもないよ」
そうだ、当初こそ夢中になってハイペースで走る涼香についていくのに必死だったが、近頃では大分慣れてきていた。いつものルートの半分を過ぎたばかり、まだへばるようなことはないはずだ。それなのにどうして俺は座り込んでいるのだろう。
「少し休憩しよっか」
そう言って微笑む涼香の手を取って立ち上がり、ジョギングルートの折り返し地点としている寺へと戻ってきた。部活でダッシュすることもある石段を今日はゆっくり歩いて上ると、手水場近くの石塀に二人並んで腰を下ろした。少し和らいできた残暑の中、木陰に座っていると、心地の良い風が火照った身体を冷ましてくれる。人気のない境内の中央ではアカマツの古木が聳え、広げた枝をかすかに揺らしていた。
「それで、何があったの? 話してみて?」
いつもの優しい声で涼香が問いかける。堆積し、固まった心の壁がじわりと溶かされるような感じがした。俺は、高校生の俺がまだ持つはずのない記憶、情けなくも鬱屈した思いをぽつぽつと語り始めた。