小説

『時と夢の旅人』田村瀬津子(『浦島太郎』)

「パパの目が開いたときの方が怖いの」
 私も同じ怖れを抱いていた。いつ快復するか、どの程度快復するか全く分からないという状況の中で。
「今日の心配は何?」
 姉は眉を上げて、え? と聞き返した。
「明日の心配を前借りしてはいけないという、英語の諺があるの。聖書からの引用みたいだけど」
 私はティーを口に含んだ後に続ける。
「今日が大丈夫なら、明日も明後日もきっと大丈夫。そういう気概でお姉ちゃんはずっと持ち堪えてきた。晃さんが時間がゆっくりとしか流れない場所で眠り続けているのだとしたら、私たちは瞬時に過ぎ去っていく時を生きていくしかないの。今この瞬間は大丈夫と、おまじないのように自分に言い聞かせながら」
 姉は片手で口元を覆った。薬指にはめられた結婚指輪が少し緩くなっている。ランチには何をつくって食べようかと、私は言った。

 
 冷蔵庫に残っていた野菜とハムを炒めて塩ラーメンをつくり、昼食を済ませた後に、姉の運転する車で病院へと向かう。姉はハンドルの先に視線を集中させたまま、今度こそは千絵の結婚の話をしようと言った。
「彼は才能も実力もあるし、収入も十分過ぎるほどあるの。彼にとっては再婚だけど、前の奥さんとの間に子供はいないし」
 彼は私より一回り年上のアートディレクターで、大手の広告代理店で数々のヒットCM作品を手がけた後に独立し、今はスタッフを何人か雇いながら、メディアアート制作関連の事業を幅広く展開している。二年ほど前に彼の会社から請け負った仕事を通じて知り合い、それからは半同棲のつき合いを続けている。
「子供をつくる気はあるの?」
「私が欲しいのなら、つくるのは構わないって。私までもが三児の母になるなんて想像もつかないけど」
 姉は小さく笑った。
「その代わりにお互いが今まで通りにがつがつ働いて、私の仕事の幅も広がっていって、商業写真だけじゃなくてアート写真も撮れるようになって、運がまわってくれば、いずれは賞をもらえたりしてというのは想像がつくの」
「千絵が心から望んでいることだからだよ。運命からありのままに受け取ったらいい」
 素直にそうだよねとは言えずにいた。私は一体何を怖れて、受け取れずにいるのだろうか。
「試練が襲って来たら、その都度考えていけばいい。千絵が私にしてくれているように、全身全霊で支えてあげる」

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