翔を怒らせてしまった。それから話すことができなくなり、私の初恋は土の付いた腕時計と引き換えに終わってしまった。
腕時計は翔に返すことができないまま、今でも私が持っている。
翔は東京の大学への受験を機に上京した後は、奈良へ帰ってくることはなかった。
子どもの頃から雨が好きだった。
まだ青いもみじに雨が当たり葉が揺れている。秋になると深い赤になる自慢のもみじだ。雨の向こうの三輪山は更に深い緑を広げている。
父は三輪神社の二の鳥居裏でそうめん処の店を営業している。私は地元の高校を卒業後父の店を手伝っている。
今は夏の観光シーズンが終わり、紅葉のシーズンが始める前のちょうど狭間の季節だ。そして雨だった。観光客の姿はまばらだ。
「ここ、いいかな?」
店内に入ってきた長身の男性に、息が止まりそうになった。
翔が立っていた。
「久しぶり」
あの時のやり取りなど忘れているかのように翔は爽やかだった。洗練された大人になって微笑んでいる。
就職の内定がもらえるよう、お山で祈願しようと帰って来たのだという。
やっぱり忘れてる。
ずいぶん都合のいい祈願だ。
神様の山にあんなことをしたのに。
私の中にもやっとしたものが湧き上がった。それが意地悪な感情だということを自覚したのは、次に出た言葉だった。
「翔のお願いは叶えてくださらんかもしれんよ」
翔がどうして、という顔をした。
10歳の時の腕時計のことを話す。すると翔は一瞬怯えたような表情をして顔を曇らせた。
「やっぱり、あれがいけなかったんだよな」
うな垂れている翔を見て、すぐに悪いことを言ったと後悔した。
「でもあの時計はうちが持ち帰ったから」
「そうだね、ありがとう。おかげで助かったよ」
え、どういうことだろう、翔にお礼を言われるなんて。