小説

『透明みたい』室市雅則(『不知火の松(神奈川県川崎市)』)

 太陽が顔を覗かせるほんの少し前。夜と朝が混じり合っている束の間。空は真夜中よりも暗くて濃くなる。何色と言ったら良いのだろう。黒、濃紺、黒緑。そんな色の空を炙るように炎が煙突の先から噴き上がる。
 フレアスタック。
 コンビナートの余剰ガスを無害化するために燃やした炎。人の営みの端っこが燃え上がっている。
 私はそれをタンクの頂上から眺めている。ここは私だけの特等席で他に誰もいない。『行く河の流れは絶えずして』と昔の人が言っていたが、その炎版と言えば分かりやすいだろうか。この炎は、何度も噴き上がるのに二度と同じ形とならない。巡回と称しタンクに登って眺める時間が、私の暮らしの中で唯一の楽しみとなっている。
 そして、朝が来ると光の中に紛れてしまうそれは、昼と夜が逆転している自分のようだ。しかし、私は燃えるものを持ち合わせていないし、私が吐く息は害でも無害でもない。
 透明みたいだ。
 その昔交際していた女性と工場夜景クルーズに参加し、初めてこの炎を見た。私は息を呑んだが、彼女は最初喜んでいたものも寒さでイラついているのが分かった。私は少しでもそれを和らげようと、もし今船が沈んでも、炎が目印になって泳いで陸に辿り着けるねと冗談を言った所「へえ」と空返事があっただけで終わった。そして、船が沈む前に私たちの関係の方が沈んだ。
 彼女とのいくつかのエピソードを思い返す朝を何度も迎える私を『685』のモニターのライトが点いて、現実に引き戻してくれる。
「フレアスタックの数値は通常です」
とても滑らかな女性の声で『685』が状況を知らせてくれた。
「ハチゴ、ありがとう。了解」
「はい、分かりました」
『685』は私の勤める石油コンビナートの安全を確認するシステムが入ったタブレットデバイスである。警防部の私は仕事中、常に肌身離さず身に付けている。『ハチゴ』には正確な製品名があるのだが、私に支給されたタブレットに製造番号『685』と刻印されていたので『85』をとって『ハチゴ』と名付けた。
 私以外は、製品名で呼んでおり、彼らの前で『ハチゴ』と呼ばないようにしていたけれど、ある時、うっかり口に出てしまったのが『ハチコ』と聞こえたらしく、私はタブレットを恋人にしているとふざけて囁かれるようになった。
 それは正しい情報ではないが、まるっきり間違えでない気がした。

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