小説

『白鶴の桜』宮脇彩(『鶴の恩返し』)

 嫌な気持ちを振り払うかのように機を織っていると、不意に、戸の向こう側に気配を感じて手を止めた。
「お前がこの家に来てくれた日のことを、覚えているかい?」
 おじいさんの声だった。
「小さなこの家に、たった二人だけの長い冬は、どうしたって寂しいものだった。だけどあの日、お前が来てくれて、この家は、春が訪れたように温かくなった。」
 手が、震える。何か言わなくちゃ。でも、声が詰まって、言葉にならない。
「毎年、二人きりで見ていた桜を、お前と三人で見ることができて、幸せだと思った。」
 たまらなくなって、おじいさんにもらった桜模様の櫛を、そっと撫でた。
「来年も、再来年も、その次の年も、一緒に見たいと思った。」
 でも…、でも、私は…。
「いつか、儂は鶴を助けたことがあってな。」
 ハッとして、思わず勢いよく顔を上げた。
「罠にかかっていたのを外してやったら、その鶴は、見事な翼を広げて、大空へ飛んで行った。」
 涙が、とめどなく溢れてくる。
「美しかった。儂は、その光景で十分だ。十分なんだよ。」
 織りかけの布に、幾つもの水滴が染みこんでゆく。
「この戸を儂が開けてしまえば、きっとお前は機織りをやめてくれる。だけど、この家からも去ってしまうだろう。だから…」
 戸の向こう側に、おじいさんに寄り添うようにおばあさんが居るのがわかった。
「今、お前がこの戸を開けて、出てきておくれ。…さくら。」
 さくら。そう、これが、私の名前だ。あの日、「この家に春をもたらしてくれた」と、おじいさんとおばあさんが、私にくれた 名前。
 あの春の日、桜の木の下で、桜模様の櫛をくれたおじいさんは、私に言った。
「来年もまた、三人でこの桜を見てくれるかい?」
 私は、何も言えなかった。櫛をそっと抱きしめて、不器用に微笑むことしかできなかった。いいのだろうか。本当に、いいのだろうか。
「居てくれるだけで、いいのよ。さくら。」
 こんなにも幸せなことってほかにないわと、おばあさんは言った。その優しい声に、私の不安は消えた。あるのは、少しだけの後悔と安堵、そして喜び。
 桜の櫛を握りしめて、部屋を飛び出した。
 おじいさんとおばあさんに抱きついて、ただただ泣いた。ごめんなさい。ごめんなさい。何度も、何度も謝った。そして二人に、めいっぱいの「ありがとう」を伝えよう。
 「三人でのお花見、楽しみですね…。」

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