小説

『白鶴の桜』宮脇彩(『鶴の恩返し』)

 あの日、私は初めて人の優しさに触れた。
 羽を少し休ませようと、地上へ降り立ったその時、足に縄が絡みついた。人間の仕掛けた
罠だと気づいたときにはもう遅く、私は、悔しさで胸が締め付けられるのを感じていた。
「もう、あの大空を羽ばたくことは叶わぬのか」と項垂れたその時、罠が外された。ほ
かでもない、人間の手によって。
 私が無事に飛び立つのを見送って、その人間は去っていった。
 私は、決心した。
 「こんばんは。雪がやむまで、私を置いてはくださいませんか。」
 人間の姿となった私は、雪深くなった夜、私を助けた人間の家に押し掛けた。人間の優しさを忘れられず、昼間の恩を返すために。
 雪の降る夜、突然やってきた私を、老夫婦は快く迎え入れてくれた。
 それからは穏やかな、三人での生活が始まった。
 何をすれば恩を返せるのか、まだわからなかったから、しばらくは様子を見ることにした。しかし、三人で過ごす日々は、思いのほか心地よく、温かいものだった。
 長い冬を、囲炉裏火を囲みながら、たくさんお話しをして過ごした。
 雪が解けると、みんなで一緒に畑を耕し、種を植えた。
 笑顔が絶えることのない、にぎやかで、楽しい日々が過ぎてゆく。いつのまにか私は、ここを離れ難くなってしまっていた。
 ある日、家のすぐそばにある丘に、大きな桜の木があるのだと、おじいさんとおばあさんが言った。三人で、見に行った。
 桜は薄桃色で、とても美しく、散ってしまうのが惜しいほどだった。そして、散ってゆく花弁を、三人で寄り添うこの時間ごと、なくさないようどこかに閉じ込めてしまいたいとさえ思えた。
 不意に、おじいさんが私に何かを手渡した。布に包まれたそれを開いてみると、そこには、桜の模様が入った、美しい櫛があった。
 私は、言葉を失った。こんな高価そうなもの、どうして…?
 おじいさんとおばあさんの、汚れた着物。粗末な食事。この家が裕福ではないことくらい、私にだってわかっていた。
「来年もまた、三人でこの桜を見てくれるかい?」
おじいさんの言葉に、胸がきゅっと痛んだ。
 桜の花弁がすっかり散ってしまい、緑の葉へと姿を変えてゆく。とりあえず私は、おじいさんとおばあさんの手伝いをすることにした。畑仕事や毎日の食事の準備。家の掃除をしたり、二人の肩をたたいてあげたり…。おじいさんも、おばあさんも、とても喜んでくれた。けれど、だめなのだ。こんなことぐらいでは、恩返しにならない。二人を、幸せにはできない。
 私は、焦った。

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