小説

『石の声』盧仁淳(『セメント樽の中の手紙』)

 家に向かう車の中、母の表情は数時間前と比べ幾分か柔和だったものの、未だに不安げな様子は伺えた。
「あんたまだ2週間後まで夏休みだよね。特に学校の予定とかは入ってない? 」
「うん」
「そう、なら、明日からおばあちゃんちの家で暫くの間過ごすから、今日中に荷物まとめといて」
「え、どうして」
「おばあちゃんの持ち物とか、整理しとかなきゃいけないから」
 母のことばが、覚悟を決めたような、鉛のように重たく響いた。そのことばの重たさで葵はおぼろげに、祖母の余命がそう長くないことを悟った。
 その日の夜帰宅後すぐ荷物をまとめ、翌朝、すぐに祖母の家へ向かった。主人のいない日本家屋とは、なんて物寂しいものだろうかと、葵は思う。手入れが行き届いた玄関も、庭も、居間も、時が止まったようだった。
 荷解き(といっても必要最低限の着替えや、夏休み中の課題といったものである)を終え、葵は母の言いつけ通りあまり開かれることのない押入れの整理に取り掛かる。普段、母も、祖母でさえもめったに開くことのない押し入れだった。小さな脚立に乗り、押入れの最奥を覗き込むと木の箱が入っている。着物等をしまってある衣装ケースは埃が積もっているのに、なぜだかその小箱だけほとんど埃をかぶっていない、きれいな状態だった。
 小箱の中には、ふるぼけた布裂で包まれた分厚い手紙と、灰色でごつごつした石の欠片がひとつ、入っていた。葵はほとんど無意識に、薄茶色をして、ところどころ文字の滲んだ手紙を手に取り、何者かによってつづられた文字を追い始める。
 差出人はセメントあけをしている、松戸与三という者からだった。松戸は自身について端的に書き記したのち、つらつらと、数十枚にわたって様々な土地の名と日付を書き連ねた。
 葵は文字の羅列を眺めるうちに、不幸な事故のために祖母と母を置いてこの世を去った男の話と、近所を散歩したときに祖母が見せた、あのさみしげな顔を思い出した。
 最後に、「これは、恐らく其方の恋人の欠片である」という文面と、一言二言、祖母の身を案じる言葉が書かれ、手紙は締めくくられた。
 隅々まで手紙を読み終えた葵の胸が、恐らく、この手紙の送り主も抱いたであろう感情と似た類いのものに満たされていることに気付いた。欠片を軽く握る。初めは冷たく、無機質なただの石ころに思えたそれは、「ただの石ころ」とはもう、到底思えない。
 尊い、一つの欠片だった。
 祖母に、必ずこの手紙と恋人の欠片を、もう一度見せなければならないと葵は思い、小箱を抱え、飛び出すように外へ出る。
 一歩、また一歩と歩きなれたアスファルトを踏みしめるたび、祖母が語った石の声が聞こえてくるようだった。

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