小説

『石の声』盧仁淳(『セメント樽の中の手紙』)

 電話越しの母が泣いているような、聞きようによってはヒステリックとも取れる甲高い声で祖母の危篤を告げる。
 祖母が倒れた。祖母が、倒れた。言葉を脳内で反芻するも、初めは理解ができなかった。ようやく理解した頃には頭のてっぺんからつま先まで、凍り付いたような感覚に陥っていることに気づく。ジワ、ジワと遠くで鳴く蝉時雨だけが、唯一その感覚から脱却できる手段のように思えて、葵は母の穏やかでない声と蝉時雨の二重奏をただただ聞いた。

 
 ♢

 
 病院に到着してからというものの、手術中の赤いランプを見つめる、時間が永遠のように続いた。明かりをひたすら見つめるその行為は、まるで薪のようだった。
 何時間か経った頃、とランプの明かりが消え、自動ドアから出てきた医師が手術の成功と祖母の容態が安定している旨を告げた。
「よかった」
 母がぽつりと呟いた直後、泣き崩れる。慌てて母に駆け寄り支えようとした瞬間、ようやく葵の霞がかったようにぼやけた意識が戻っていくのを感じたのだった。
 葵にとって、祖母は実の母親と同じくらい大切な存在だった。母子家庭かつ体の弱かった幼い頃はよく祖母に預けられ、時には1ヶ月以上もの時を祖母の家で過ごしたこともあった。彼女はセメント袋を縫う女工として働きながら女一つで母を育て上げた人だった。自身の恋人を職場の事故で(なお、詳しい事故の内容は葵も、母でさえ知らない)亡くした直後、母を妊娠していることが分かったらしい。未婚かつ、母一人子一人。とてつもなくひもじい状況下で必死に母を育てたのだと、卵とネギの入ったおかゆを匙で与えてくれながら、よく葵に語った。祖母には悪戯をするたびにテレビアニメに登場する父親のようにゲンコツをされたし、やるべきことをしっかりと行えば、優しく頭を撫で、褒めてくれた。時折、近所を一緒に散歩してくれた。散歩をしている時の祖母は、なぜかもの悲しさに襲われがちで、よく寂しげな顔をした。祖母に理由を尋ねると、しきりに、「石の声が聞こえてくるのよ」と答えた。祖母の言葉の意味を葵は理解できなかったものの、元気づけるためにそっと祖母の手を握ると花がほころぶように笑ってくれた。葵は、祖母が好きだった。
 手術を終え、今は病室のベッドで眠る祖母の顔を眺める。誰よりも強く、優しい祖母が寝ている。白いシーツと同化してしまうのではないかと思うほど、彼女の顔は紙のように白かった。そのとき、ふいに祖母がうっすらと目を開けた。腕時計を見ると手術が終わってからかなりの時間が経っておりちょうど麻酔が切れるであろう時間帯だった。まるで子どものような眠たそうな目に、葵は自分の心臓が小さく跳ねるのを感じる。何も覚えていないような、ぼんやりとした顔つきをした祖母は、ひたすらに葵を見ていた。
「明日もまた、来るから」
 祖母に向かって、努めてやさしく声をかける。祖母はその言葉を理解したのか、ゆっくりと目を細め、やがて閉じた。子どものころ、夢うつつでぐずっていた時、祖母にやさしく声をかけてもらった記憶がふいに蘇る。あの時の祖母と自分の立場が変わってしまった悲しみがじんわりと葵の胸を満たした。

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