小説

『わたのはらの姫』七尾ナオ(『江談抄などの小野篁伝説(京都)』)

「父さん!」
 私は、隠れていたのを忘れて叫ぶ。だけど父さんは気づかない。父さんが入っていった店には、「ネコノコ・コネコ」と、私でも読める文字で書かれていた。

「ネコノコ・コネコ」には、私が背伸びしてやっと覗けるぐらいの高さに小さい窓があった。ずっとつま先立ちをしているのは苦しいので、伸びたり縮んだりしながら、私は中の様子をうかがった。赤いじゅうたんに、チカチカしたシャンデリア。忙しく動き回る人が着ているのは金魚みたいにヒラヒラした赤いドレス。大きくセットされた虹色の髪と、そこに飾られた蝶々、花、羽飾り。小窓から覗く限り、ここはいわゆる夜のお店だ。そして、お店の人はみんな男、だと思う。おそらく。でも、父さんの姿はない。確かにこの店に入ったのだけど、とまた伸びたり縮んだりしていると、店内で大きな歓声が上がった。
「お待たせいたしましたぁ! 本日のショータイム、歌ってくれるのはあなたのお耳の恋人、ラミィちゃんです!」
 スポットライトと喝采に包まれて、青いスパンコールびっしりのドレスが出てきた。くるくる巻いた紫の髪、引きずられたファー、にょっきり伸びた網タイツの足、だけどこれは、
「父さんだ」
 父さんだった。父さんが、女装して出てきた。父さんは、いや、ラミィちゃんは歌う。

目を閉じていても思い出すの
あなたの香り
だから今でも祈ってるの
あの日と同じ煙草吸っていて

目を閉じていても――

 私はその人を、綺麗だ、と思った。その時、ラミィちゃんと、いや、父さんと目が合った。父さんは確かに、小窓の外の私を見つけた。ミツキちゃん、の形に父さんの口が動く。私は弾かれたように走り出した。
 逃げろ、逃げなきゃ、どこに? 私は、ゆらゆら浮かぶ提灯の間を駆け出した。

 それほど歩いていないはずなのに、この街を抜けられない。ここ、どこ? 父さん、なにしてんの? 脳に酸素が届かないので、難しいことが考えられない。その結果の前方不注意だった。
「いてぇ」
 ごめんなさい、と消えるように言った。走る私がぶつかったのは、二メートルはある、少なくとも私にはそう見える、大きな男だった。ぼろぼろの着物に、大きな数珠、顔は襟巻で隠れて見えない。腰には、刀が刺さっている。
「てめぇ、この世のモンじゃねぇな。迷いこんだか」
 そうなんです、だから許してください。思っているけれど、声が出ない。男が、グヒ、と笑って刀を抜いた。
「試し切りじゃ」
 あ、死ぬ。そう思ったとき、男の動きが止まった。
「なんだぁ!?」
 男が刀を振りかぶったまま叫ぶ。いつの間にか通りに人はいなくなり、向こうから、何か来る。青白く光る提灯、太鼓と笛と鈴の音。踊りながら歩いてくるのは、さっきお店で見かけた人たちだ。赤、青、緑のドレスは光に照らされて、内側から光っているようだった。空に向かって、花火のように光る紙吹雪を撒きながら、こちらを目指してやってくる。各々が好きなように歌っているのであろう歌や笑い声が、ひとつの合唱のように聞こえる。男の体がぶるぶる震えだした。

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