小説

『西出口』劇鼠らてこ(『賢淵(宮城県仙台市)』)

 その日は雨でした。
 突然の天気雨。天気予報では0%、朝に肌で感じた空気もカラっとしていたのに、夕方から土砂降りの雨。空にはまだ赤色が残っていて、けれどこうも降られてはさぁ大変。
 カバンを頭に乗せて、走っていく人。コンビニでビニール傘を買う人。初めから折り畳み傘を持っていた人。
 様々な人が夕空の街を駆け抜けていく中、私は一人、ポツンと立ちすくんだまま。
 というのも、今日持ち歩いているカバンには少しばかり重要な書類が入っていて、濡らせないし。どうせいつかは捨ててしまうようなビニール傘を、買う気にもなれないし。勿論の事折り畳み傘なんてもっていないし。
 だからどうしようかな、と。自宅の最寄り駅の西出口。距離にして1kmもない場所で立ち往生。こんな距離なので、タクシーを呼ぶのも憚られます。
 これはどうしたものだろうか、カバンを抱え込んで背を濡らして帰ろうかな、なんて思っていた所です。

「あの……お困りのようでしたら、傘、お貸ししましょうか?」
「え?」

 突然のことでした。左斜め後ろから、心配そうな声色の、男の人の声がかかったのです。
 誰かに声を掛けられる、なんて思っていなかったので、素っ頓狂な声を出してしまって。けれど、振り向けば、声をかけてきた人は青年……あどけなさの残る、二十代前半くらいの……年下の男の子で。
 そのあどけなさに、そのあまりにも心配そうな顔に、私はすっかり気を許してしまって、「あぁ、いえ、お気遣いありがとうございます」、なんて返してしまいました。
 すると男の子は、「あ、いえ、僕折り畳み傘持ってる、持ってますので!」と言って、赤い傘を一つ、私に押し付けてきたのです。
 どうして折り畳み傘と普通の傘の二本を持ち歩いていたのか、なんてことを聞く隙も無く、「それじゃあ!」と言って男の子は去っていってしまいました。

 名前も、連絡先も知らない男の子。でも、世の中捨てたものじゃないなぁ、と。
 その日はその赤い傘を差して家路に尽きました。書類も私も無事濡れる事なく、本当に助かりました。
 ただ、翌日も、そのまた翌日も、男の子が駅に現れる事は無く、借りたまんまの傘が一つ、私の家に増える事となったのです。

 
 それから二週間ほど後の事です。
 その日もまた、あの日の様に天気雨で、晴れ空から降る豪雨に辟易していました。二週間前に裏切られたばかりだというのに私はまた天気予報を信じていて、だから傘を持っておらず、更にはまた、重要書類をカバンに抱えた状態。
 学ばない自分に落胆しつつ、あの日のようなことはもうないだろうな、なんて雨空をぼんやり眺めていた、その時。

「あ、あの……」

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