小説

『西出口』劇鼠らてこ(『賢淵(宮城県仙台市)』)

「え」

 一度経験していたからでしょうか、今度は素っ頓狂な声を出す事はありませんでした。これは学び。
 そんな自己満足に耽りながら左斜め後方を見ると、そこにはやはり、あの時の男の子が。私なりに注意深く探して、けれど結局見つける事の出来なかった青年が、またあの心配そうな顔と声で、こちらに向いていたのです。

「お困りでしたら……その」
「あぁ、でも、あの時の傘をまだ返していませんし。あ、いえ、その前にまずお礼からでしたね。あの時は本当に助かりました。ありがとうございました」
「いえホント、僕なんかので良かったら……で、その、全然良いんですけど、その」

 しどろもどろに、あるいはもじもじしながら。
 彼はソレ──手に握りしめた、青い傘を差し出してきます。

「そんな、流石に悪いですよ」
「ほ、ほんと! 大丈夫なんで! 僕折り畳みあるんで、その!」
「そんなに言うなら……あ、でも、それなら連絡先を」

 教えてください、までを言う前に、男の子は私に傘を押し付け、走り去っていってしまいます。あると言っていた折り畳み傘も差さずに、ずぶ濡れになって。
 良い子、ではあるんだろうなぁ、と思いつつ。
 少しだけ、少しだけ。自意識過剰でなければ──私に気があるのかな? なんて。
 年下の男の子に対して抱く幻想に、まぁそんなワケないか、と。それだったら連絡先聞くよね、と。煌めく幻想を自分で否定します。
 雨は未だ弱まることを知らず、故にやっぱり、大助かりで。
 今度は青い傘を広げて、私は家路に就くのでした。

 前回同様、その翌日、またその翌日と彼を探して見ましたが、見つからず。
 またも自宅に、借りたまんまの傘が一つ増えることになります。

 

 それから、ひと月ほど経った頃の話です。
 いつもは一時間ほどの残業をして帰る私が定時上がり、なんて奇跡を成したその日。
 天気予報は晴れ。降水確率0%。……だというのに、空には暗雲。これは降るな、なんて確信めいた勘の冴えわたる中、私の視界に一つの影が映りました。人ごみの中で、良く目立つ……黄色い傘を手に持つ青年。
 そう、あの時の彼が、そこにいたのです。
 今度こそは、傘を借りずに。今度こそは、あの二つの傘を返そうと、そう思って彼に近づき。

 彼の、奇妙な点に気が付きました。

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