小説

『わたのはらの姫』七尾ナオ(『江談抄などの小野篁伝説(京都)』)

 父さんは、隠し事をしてる。私が気づいていないと思っていることまで、私は気づいてる。

「この、小野篁という人物は、なかなか波乱万丈な人生を送ってまして、はい。一説には六堂珍皇寺の井戸からですね、あの世へ通って行って、閻魔大王の下で働いていただとか、百鬼夜行を見ただとか、そんな風にも言われています、はい。百鬼夜行はね、普通は見たら死ぬだなんてそんなことも、はい」
 父さんは、私の通っている中学の教師だ。担当は日本史。授業は、つまらない、眠い、分かりにくいの三拍子で、正直言って生徒からは人気がない。
「今日はここまで、はい、ミツキちゃ……いや、あの、お、小野さん、号令を……」
 学校では、父さんではなく小野先生、ミツキちゃんではなく小野さん。私が中学に入ってから決めていることなのに、父さんはまた私を呼び間違えて、教室がどっと沸く。私がきりーつ、と声を張り上げても、まだクスクス笑いは収まらなかった。
私は、父さんが恥ずかしい。

 そんな父さんは、夜な夜などこかに出かけている。私が寝た後家を出て、起きるころには帰っている。父さんは、そのことに私が気づいていないと思っているみたいだけど、私はもう二か月も前から気づいている。たったふたりの家族なのに、隠し事なんてできるわけない。だから私は、父さんの後をつけることにした。
「おやすみ」
 夜十時。いつもより早くお風呂に入ってパジャマに着替える。
「あ、ああ、おやすみ、ミツキちゃん」
 父さんは、リビングで新聞なんか広げていて、父さんも寝ようかなー、とわざとらしく呟いた。私は自分の部屋で息をひそめ、父さんが動きだすのを待つ。いい加減待つのにも飽きてきた十一時、玄関の方から音がした。やっぱり今夜もどこか行くんだ! 父さんの足音が遠くなるのを聞き届けてから、私もそっと玄関のドアを開ける。

 父さんは、マンションを出て、大和大路通から松原通に出る。私も静かに後に続く。松原交番の前を通るとき、補導されたらどうしようかとハラハラしたけれど、交番の前には誰もいなかった。動きやすさを重視してきたけれど、学校指定のジャージは失敗だったかもしれない。
花屋。電気屋。当たり前だけどこの時間は閉まっている。いつものポロシャツに手ぶらの父さんは、夜道をまっすぐ歩く。
 和菓子屋。パン屋。そういえば、今夜は誰ともすれ違わない。揚げ物屋の角で、父さんが北に曲がった。ここは、六堂珍皇寺がある場所だ。私は息をのんだ。
「六堂さんが……」
 そこには、いつもの静かな六堂珍皇寺ではなく、ギラギラとした街が広がっていた。

 赤い花が咲いている。道は石畳、ネオンではなく赤い灯篭が光っている。灯篭だけではない。金魚や竜、蓮のかたちの提灯が、どういう仕組みなのかゆっくり空中を揺れながら、ぼうっと灯っていた。街を歩く人はみんな着物を着ていて、泳ぐように、踊るように、店と店の間を漂っている。少し視線を上げると看板が並んでいるが、その文字はどう頑張っても読むことができない。かろうじて、「牛」とか「桃」とかの漢字らしきものが見つかっただけだ。お店からは、甘いにおいが漂ってくる。ここは、どこなんだろう。ぼんやりしていると、ポロシャツの背中が一軒の店に入っていくのが見えた。

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