彼は立ち尽くしていたのです。人込みの中。西出口前の交差点。道路のど真ん中。
人々は彼を気にしません。まるで見えていないかのように通り過ぎて行きます。まぁ見えていたとしても、帰宅際に厄介ごとに巻き込まれるのは御免だ、って人ばかりでしょうから、無視を決め込んだのかもしれませんが。
でも、やっぱり、明らかに。
彼の周囲の人は、彼が一切いないかのように交差点を行きます。信号が変わって、車が行き来するようになってもそれは同じ。交差点の真ん中ですから、確かに車は来ません。けれど、どのドライバーも彼に驚く様子はなく、彼に怒る素振りもなく。
本当に見えないといった様子で、誰も彼もが彼を素通りしていきます。
黄色い傘。あんなに目立つものを持っているというのに。
私はなんだか妙な怖さを覚えて、今までの恩も忘れ、踵を返して帰ろうとしました。しましたが、いや、本当にその時です。狙いすましたかのようなタイミングで──雨が、ポツリ、ポツリと降り出すではありませんか。
カバンにはいつも通り書類が入っていて、濡らせない。
これは不味いと一端西出口まで引き返します。
私以外の人々もまた、蜘蛛の子を散らすように交差点から散っていきます。
その中に。
その、中に。
彼は、いませんでした。
「あの」
「えっ!?」
そちらに意識が向いていたからでしょう。
赤い傘の時よりも素っ頓狂な声を張り上げて、右前方へと飛び退く私。だって、それも仕方がないでしょう。その声は紛れもなく彼のもので、視界の端に、あの黄色が映ったのですから。
交差点の真ん中と西出口。彼我の距離は100mほどあります。それを一瞬で、なんて。
「お困りのようでしたら、この傘を」
そう言って差し出してくるは、黄色い傘。
彼は、青年は、男の子は。あどけない顔で、心から心配しているような顔で──そう言うのです。
私はそれを、受け取りませんでした。
「あの、前回も、前々回も、ありがとうございます。本当に助かりました。けれど、その……少しばかり嵩張ってしまうので、今回はご遠慮させてください。あと、連絡先を教えてくださいませんか? あるいは近い内、どこでなら会えるのかを……」
そこまで言って、気が付きます。ホントにようやく、気が付きます。
彼は何も持っていませんでした。カバンも、ポーチも、何も。
黄色い傘以外の何も持っていないのです。折り畳み傘を入れる場所なんてありません。予備の傘を隠す場所なんてありません。
自分の持つ傘以外。自分の持つ、黄色い傘以外。