男は濡れた着物を広げることもせず、しばらく蝋燭の絵を眺めていた。
それからすぐに、男が自身の手の中にある燐寸を擦り、順に壁面の蝋燭を灯し始めたのは自然なことだった。
…母が蒸発したのは叔父の葬式の翌日だった。父は酒ばかり飲むようになり、それから数年して工場は畳んでしまった。返済を迫る銀行員が足しげく通ってくるようになり、反対に親類はみな、音信不通となった。
どうしてなのか、男が現実を受け入れられずにいるとき、近所の老女が意味ありげに耳打ちをしてきた。
…人魚なんか売り買いするからだよ。あんた。人間を信じてさ、浜に子供を産んだ人魚の気持ちなんて考えたことあるかい。大事な子供がひどい目にあったんだからさ。
老女はそう言うと、にやりと笑った。
気が付けば男は、すべての燐寸を擦り切っていた。壁中の蝋燭が煌々と燃えている。
お堂の中は眼が眩むほどのまばゆさだった。蠟が溶け、ぽたり、ぽたりと床を打った。男が意識せぬままに時間は流れ、ストオブは燃料切れで消え、窓から朝日が差し込んできた。
男が灯をともした蝋燭はすべて溶けてしまった。堂の床には、白と朱の蝋が、混ざりきらぬままに溶け固まって、山脈を成していた。
窓からは、木々を縫って晴れ渡る空が見えた。
空の端境にぶら下がるような漁村も見えた。
そして漁村の先には、かすかに煌めく水面が見える。
白い波がしらを立てるあれは、海だろう。
湿ったままの着物を拾い上げ羽織ると、男は窓辺に立った。
…この村で暮らそう。
小さくつぶやくと、男は一本だけ灯をともすことなく残っていた蝋燭を手に取り、叔父が人魚を買い叩いたという漁村へ足を向けた。不思議と、もう海は怖くなかった。
これは罪滅ぼしなのだろうか。謝罪や禊というにはあまりにも空疎な思考で、男は自身がここで暮らそうと考えた理由を、無理に考えてみようとした。
男はすぐに漁村に根付いた。
その漁村は一度廃れたことがあるらしく、流れ者の多く住む村で、誰も男のことを敬遠することはなかった。
男の胸には、村民も、母も、工場も、債務も、何もなく、ただ燃える蝋燭と、溶けかかる蝋と、朱色の魚の鱗だけが躍っていた。
それから一年たった年の瀬のこと。男は、今日も浜に立ち、網を投げていた。
手繰り寄せ、投げ、再び手繰り寄せる。小石と海草しか掛からぬ網の目を数えることにも飽いたのか、無関心な表情のままで、男はただそれだけを繰り返していた。網を投げ、手繰り寄せ、また投げる。あかぎれが走る掌には、すでに血が滲んでいた。
海から吹きつける冷たい風が、幾度も浜を薙いだ。野うさぎや狢さえ、巣穴からは出てこない。すっかり雪の降り積もった静かな海辺では、死に絶えたように何もかもが静止していた。ただ小さく打ち寄せる波と、男の繰り出す網だけが、精彩を欠くことなく機械じみて動いていた。
時折頬をかすめ全身を凍えさせる風に、男の耳朶は割れるように痛んだ。魚籠の中はいまだ空のままで、黒々とした浜の小石の上で恥じらうようにじっとしていた。