小説

『パプリカ』ウダ・タマキ(『檸檬(京都)』)

 私は鴨川の河原に座り川面をぼうっと眺めていた。一日を共にしたパプリカは、辱めを受けるどころか多くの人達から愛でられた。きっと、誰かのSNSなどにアップされては「いいね」の評価を受けて拡散されていることだろう。
 色鮮やかだったパプリカは、なんとなく艶が落ち光潤さが失われたように見える。
「すみません」
 背後からの女性の声に、まさか自分が呼ばれているとは思わず気に留めなかったが、再び繰り返された呼びかけに私はゆっくりと後ろを振り返った。
 そこに立つ首にカメラをぶら下げた女性は見るからに健康的で闊達そうで、まるで私とは対照的ではあるが、年齢だけは近いように感じた。
「どうかされました?」
「パプリカ、可愛いから写真に撮りたいなって。ダメ、ですか?」
「いえ、全然大丈夫ですよ」
 私は慌てて立ち上がったが、思わずよろめいた。
「あ、もし良かったら、お兄さんもそのまま座っててもらえますか? 二人の後ろ姿を撮りたいんです」
「二人の?」
「ええ、お兄さんとパプリカの。秋の京都に哀愁漂うシュールな構図がめちゃいい感じなんで」
「はぁ、ありがとうございます」
 哀愁漂う背中は雰囲気があるという良い意味ではなく、読んで時の如く哀しみが滲んでいるのだろうから、前から見ても後ろから見ても所詮は冴えない今の私だ。まあ、それでも後ろ姿くらいなら構わない。私は快くとまではいかないが、成り行きに任せて応じることにした。
 パプリカのおまけとは言えモデルを務めるなどということは人生初の経験で、シャッター音の連続に少し居心地が悪い。
「ありがとうございました!」
 女性が私の隣にしゃがみこんだ。
「おもしろいですね、パプリカに顔を描くなんて。何をしてはったんです?」
 その輝く瞳に、まさかパプリカに辱めを受けさせようと、なんてことはもちろん言えなかった。
「非日常を味わいたくて、なんとなく」
 そう言った自分が恥ずかしかったが、女性には「めっちゃ分かる」と返された。私は単純だ。それが社交辞令かもしれないのに、共感を得られて気持ちが高揚するのを感じた私は、やけに饒舌になった。本来は人見知りだ。が、この場ではあえて知らない人の方が喋りやすかったのは、自分の性格や置かれている状況全てを知られていないからであろう。相手のこともそう。互いに知らないからこそ心の深いところを読み取れなくて、ただ上っ面だけを晒しながら奥深くに潜むものを探るという行為が好奇心を擽る。
 彼女は働きながら写真のコンテストに応募し続けているらしい。その偽りのない笑顔の裏には、私と同じようにストレスや平坦な日常への不安などを抱えているそうだ。決してそうは見えない。しかし、彼女にとっては陽気なパプリカを傍らに置き、鴨川を眺める私もまたそのように映ったらしい。
「みんな、顔は笑って、見えないところで泣いてたり、悪人の顔してたりするんかもね」
「そうかもですね」
 私は小石を拾うと川面に向けて投げた。小さな水飛沫があがって消えた。
「まぁ、とにかく、笑ってたら良いことあると思うよ。私はそれを信じてる。笑う門には福来る、ってね」
 澄みきった青い空を背にした彼女の笑顔が眩しかった。空の色との調和が美しくてたまらなかった。空を見上げて、その青さを感じることは随分と久しぶりのような気がした。
 部屋に帰ると、よく歩いた足に疲れが溜まっているのを感じた。私はパプリカをテーブルに置き、その顔をじっと見つめた。当たり前だが爆発することもなく、何一つ変わらぬ笑顔を私に向けている。
「ありがとな」と、私に目的通りの小さな刺激と、素敵な出会いを与えてくれたパプリカに感謝の言葉を告げた。
 さぁ、しかしパプリカはパプリカだ。最大の感謝を示すには、ありがたく美味しくいただくことに違いない。私は冷蔵庫から鶏肉を取り出すと、パプリカに描いた笑顔を念入りに水で落とし、いざ、鶏肉と炒めようと包丁を構えた。
 レシピはスマホでチェック済みである。まずはパプリカを半分に切るべく包丁をその頂点に置き、申し訳ない気持ちを感じながらグッと力を加えた。ころりと、まな板の上に転がる。半分になったパプリカを見て、私はおかしいような、少しゾッとするような思いがした。その断面が、まるで断末魔の叫びをあげるような顔に見えるではないか。
「お前にも人には見せない苦労があるんだな」
 私は静かに、そう呟いた。そして、にやりと笑った。

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