小説

『パプリカ』ウダ・タマキ(『檸檬(京都)』)

 自由だった学生時代は呆気なく終焉を迎え、社会の秩序と会社のコンプライアンスに縛られる息苦しい生活が訪れて早十年。何気なく入社した中小企業で営業マンとして日々頭を下げて行脚する生活には慣れたが、慣れによって生ずるは退屈、虚無感、そして、何よりのしかかるのは巨大で重厚なストレス。
「顔、死んでるよな?」
 久しぶりにあった大学の同級生がさらりと言った。
 死んではいない。正しくは『無』である。心を無にして平常心を保つように努めているので表情筋は動かない。故に死人のように見えるだけのこと。
 そのくせSNSを覗き見ては他人の幸せに嫉妬し、自らの首を絞め、さらに息苦しい日々を耐え凌いでいる。
 ありふれた日常に刺激を求めるため、私は非日常的なことをやってみようと企てた。それも労力とお金をかけずにできること。とは言え、テロや犯罪まがいのことをするつもりなど毛頭なく、そんな危険な刺激を求めている訳などさらさらない。ただ心を擽るようなちっぽけな非日常体験=スリルを欲しているのである。
 そんな淡い期待を抱きつつ、右手にぶら下げた袋の中に揺れるは黄色いパプリカ。

 パプリカ―

 十八の頃から過ごす京都の街。学生時代には四条界隈に繰り出して夜通し飲み明かすなど、都会の華やかさと情緒ある古き良き街並みに心躍らせたが、今となっては色褪せた、どこか窮屈で物足りない街に思えて仕方ない。
 知ってしまうということは、ある意味で罪なことである。探究心が湧き起こらない。碁盤の目のような路地を行けば、どこに至るか大体は見当がつくし、四条界隈も京都駅周辺も私に刺激をくれる都会ではなくなった。
 いっそのこと、路地を抜ければ見知らぬ街並みが広がっていれば面白い。人生もそうだ。このまま進めば平凡な将来が待ち受けていることは容易に想像できる。いや、それならまだ良い。ひょっとすると袋小路に行き着くかも知れない。いずれにしても、希望に胸が膨らむ未来とはほど遠い。
 陰と陽。今の私はこの街の陰の部分を歩き、つまらない日常を嘆き、悔やみ、やがて芽生えた憎悪の感情は、愛したはずのこの街にさえ向けられるようになった。
 静かな秋の日曜、午前十時。
 ベッドの上で何一つ進展しない思考だけが頭を巡る。ろくに活動しない休日だが、空腹を告げる情けない音が腹の底から響いた。
「はぃいらっしゃい!」
 七十代と思しき老夫婦が営む近所の八百屋は、ここ京の都ではまだまだ若い部類に属するだろうが、それでも随分と年季の入った佇まいで『梶井商店』と記されたレトロなホーロー看板の下には、いろいろな種類の野菜が所狭しと並んでいる。
 大根、人参、キャベツ、白菜、長葱にエノキや椎茸など。太陽の光を浴びる野菜は自然の生み出す彩りが美しく、どれも新鮮に見えるのだが中でも一際目を引くのが黄色のパプリカだった。店の隅の方、大根や人参たちの影に身を潜めるようにして一つ、ゴロリと籠に転がっている。混じりっけのない光沢ある黄色でベタっと塗られたような、ずんぐりとした形がやけに愛らしく、美しい。が、それ以上に感じるのは嫌悪と憎悪だった。セピア色した私とは、まるで対極にあるパプリカに不思議とそんな感情が芽生えた。嫉妬というやつだろうか。
「パプリカ、ください。あ、あと葱と」

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