小説

『うどん屋のアレ』室市雅則(『榎木の僧正(京都)』)

 店の名は『菜の花』。
 食べるのも見るのも好きな花。それに老若男女から親しみを感じてもらえそうだから。
 それは重要なこと。
 少し前に私は『うどん屋』を開店させた。
 カウンター七席だけの可愛らしいお店。
 とある会社の総務職を勤め上げ、定年退職をしてからおよそ一年後のことである。妻には反対されたし、世間的な状況を鑑みると新しい何か、しかも飲食店をスタートさせるのは得策でないように思えた。
 しかし、このような時だからこそ、多くのお客さんに私の『うどん』を食べてもらいたい気がした。
 もちろん赤字は困るが、大きく儲からなくても良い。私が誰かに喜んでもらえるとしたら、ちょっとだけ自信のある『うどん』しかない。喜んでもらうなんて不遜だな。美味しいものでお腹がいっぱいになれば、満足の欠片だけでも提供できるかもしれないと思った。特に出汁をうどんにかけただけの『かけだし』は、反対していた妻を説得できたくらいの美味しさがある。
 とっくの昔にあの世へ行った親父も『世のため、人のためになれ』とよく言っていた。
 私は『かけだし』と毛筆で認めた短冊を店の壁にかけて店を開店させた。

 開店以来、有難いことにお客さんは途切れることなく来てくれ、店は繁盛している。昼時になるとちょっとした列ができるくらいだ。
 喜ぶべきことだが、実は素直に喜べないでいる。
 それは『稲荷寿司』の存在。
 うちのうどんの一玉は普通の店よりも多いのだが、それでももう少しとか、出汁と一緒にお米も楽しみたいという方に向けて用意した『手作り稲荷寿司』がメインのうどんよりも人気になっている。
 それはこんな具合に。

「おいでやす。お好きなお席へどうぞ」
「『稲荷寿司』ってありますか?」
「はい。ございますよ」
「『稲荷寿司』だけの注文でも良いですか?」
「はあ。まあ」
「じゃあ『稲荷寿司』を四つ」
「お、おおきに」

 このようなお客さんが日に何名もいらっしゃる。
『うどん屋』でありながら、うどんが注文されないのだ。
 インターネットで検索をすると『もしかして:稲荷寿司』と出てくる始末。
 私は『うどん屋』だ。いくら評判であっても『稲荷寿司屋さん』と呼ばれるのはあまり嬉しくない。私としてはうどんを食べてもらいたい。
 稲荷寿司が好きなお客さんには悪いが、私は稲荷寿司の販売を取りやめた。

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