(お月さま、どうか)
遊歩道を駆け抜けながら、織子は片手を宙へ伸ばした。
どうか、私を引っ張って。
こんな月を、前にも見た。
切り絵の飾られた窓から東の空にのぼりはじめた満月を見つめ、琴音は思った。延長保育の教室には、もう琴音しかいない。
「お母さん、いけないねぇ。遅いねぇ」
床にモップをかけながら声をかける初老の教諭は、母親が働くことを良しとしない考えであることを知っているので、琴音は答えない。
いつか、喘息を起こして夜間救急へかかった真夜中に、おぶわれて見上げた、あれは月だ。琴音は目を細める。あの時織子は、琴音が眠っていると思っていたようだが、琴音は目を閉じたまま、でも目覚めていた。織子は、琴音のこととなると命を賭すことも厭わない。
(でも、お母さんはたまに間違える)
琴音は道具箱から、短くなった金色のクレヨンをとった。母親だけじゃない、大人は間違える。クレヨンを画用紙に滑らせながら琴音は思う。
「琴音ちゃん、何を描くの」
「お月さま」
「お月さま好きねぇ」
「うん、お母さんと毎日見るから」
「そうよねぇ」
教諭の口調に混じる哀れみを、琴音は好きではない。
幼稚園の行きと、帰り。行きには、まだ薄闇の残る明けた空の端に薄紙のような月を、帰りには、団地の隙間からのぼりはじめた赤みがかった月を、琴音は指差し、
「ほら、月」
と織子を見上げた。
「うん、月」
そう答える織子の横顔を見つめるのが、琴音は好きだった。朝よりも、特に夜が。仕事を終えた織子は朝よりも張り詰めた様子ではなく、疲れのにじむ顔はでも優しげだった。それに、織子はたまに小さく歌った。
「遠き山に日は落ちて」
子守唄で歌詞は覚えている。琴音は続けた。
「星は空を散りばめぬ」
「今日の業を成し終えて」、のところは難しくてよく意味がわからなかったが、今の自分たちにぴったりな歌だ、と琴音は思う。
「いざや楽し円居せん」
織子が歌い、「円居(まどい)せん」というのもやはり何のことかわからなかったが、琴音は自分たちの暮らす団地の「窓」を指差した。
「あの窓が、いちばん素敵だね」
金色の月明かりに照らされた部屋の窓を見つめ、嬉しくなって琴音は駆け出す。夜道に人通りはなくしんとしていて、世界にはまるで琴音と織子しかいないように感じられた。やわらかな光のなかで、織子の姿はぴかぴかに輝いて見える。しずかに明るく照る道を、落ち葉を踏みしめ、琴音は走った。吐く息がもう白い。織子と手をつなぎ、琴音はどこまでも走って行けそうな気がした——。