小説

『本物。』斉藤高谷(『忠直卿行状記』)

 相手の拳が頬を掠めるような状況にあって、しかし百花は笑っていた。いつものアイドル然とした作りものの笑顔ではなく、本気の相手と戦えるこの状況を、心の底から楽しんでいる顔だった。
 突然、ゴムの靴底が擦れる甲高い音が響いた。
 かと思うと、相手が床に倒れた。激突、といっていいほどの音がして、悲鳴とも唸りともつかない短い声も上がった。右肩を押さえその場にうずくまる少女の元に、他のメンバーやスタッフたちが集まった。途中でダンスを打ち切られた百花は、光の消えた洞穴のような眼でその様子を眺めていた。
 結果、次の〈殿〉も百花に決まった。立ち話をしていた〈家臣〉二人のうち一人は肩を脱臼して活動休止、もう一人は事務所自体を辞めた。

 よほど暢気な人間でない限り、というより動物として生存本能が働く限り、あの〈殿決め〉で百花が見せたただならぬ気配を察知しない者はいなかった。メンバー以下、関係者の誰もが、目に見えて百花を恐れるようになった。
 そんな周囲に合わせるように百花の方でも百花の方でも「本気じゃない人間はいらない」などと口にするようになっていった。これまで以上の真剣さでレッスンに打ち込み、誰よりも長く練習を続けた。まるで自分の周りに濠でも作っているようだった。
 発売された『姫、恋にご乱心』はシングルチャート初登場三位を記録した。グループ史上最高の成績に、誰もが一瞬浮き足立ったけど、顔を一切綻ばせない百花の存在が全員に冷や水を浴びせた。一位を獲ったとしても、それは同じだったに違いない。

 百花にドラマの仕事が決まった。〈殿〉と〈家臣〉全員でオーディションを受け、役をもらったのは彼女だけだった。
 〈家臣〉の六人中五人はまあ妥当な結果だと受け入れていた。けど一人だけ、諦めきれない人間がいた。彼女は小さい頃から芸能界に身を置いていて、子役としていくつかのドラマに出演経験があった。だからこそ、歌やダンスでは百花に敵わずとも、演技ならばという思いが強かったのだろう。「監督の評価は高かった」「役のイメージはわたしの方が合っている」「難しい役柄なので演技の経験者じゃないと無理」と、周囲の宥める声も聞かずにいつまでも呟いていた。
 仕事の控え室などでそんなことを言うものだから、当然百花の耳にも入っていた。最初は無視していた百花だったけど、あまりに続くので業を煮やしたのか、立ち上がってその元子役のところへ行った。
 ここで「じゃあ今回はあなたに譲るわ」と言う百花ではなかった。
「悔しかったら奪ってみたら?」
 時間が止まったみたいに、一切の音が死んだ。
「お、お……」やがて、呻くような声が聞こえてきた。それはすぐに叫びに変わった。「お前があああああっ」
 人間が人間に飛びかかる光景を、私は初めて生で見た。元子役はローテーブルを引っくり返し、百花諸共床に倒れた。周りの誰もが呆気にとられて動けなかった。
「お前が! 全部! 奪っていくんだ!」普段の鼻に掛かったような声からは想像もできない叫びが、部屋中に響く。「自分では何もできないくせに! コネだけで生きてるくせに!」
 私は二人に近づこうと踏み出した。けれどこちらの手が届くより先に、元子役と百花の体勢が流れるように入れ替わった。
 元子役は腕を取られ、組み伏せられた。抵抗しようにも完璧に動きを封じられている。聞こえていた唸りは、やがて嗚咽へと変わった。

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