小説

『本物。』斉藤高谷(『忠直卿行状記』)

 百花の顔から笑みが、そして眼に宿っていた光が消えるのを、私は見た。
 誰かが呼びに行った男性スタッフが数人入ってきて、元子役を連れ出した。百花はと見ると、彼女は左の頬に赤黒い血を浮かべ、また例の真っ暗な眼をして立っていた。

 スキャンダルを隠したい事務所の思惑もあって、元子役の海外留学という形で事は落ち着いた。その知らせを事務所で聞いた後、稽古場の前を通りがかると、百花の後ろ姿があった。彼女は鏡に向かっていた。
 その背中は小さく、今にも消えてしまいそうなほど頼りなかった。そのまま鏡の中に飛び込んで、この世界から消え去るつもりなのではと思うほどに。
「わからないの」しんとした空気は裂くように、声が響いた。
 鏡には私の姿も映っている。言葉は私に向けられていた。
「あの子たちがわたしの何に怒って、恐れていたのか。世の中の人たちが、わたしの何を愛でているのか。ずっと考えているけど、全然わからない」
 私は彼女の後頭部を見つめる。ここからは顔が見えない。
「どんなに褒められても、怒りをぶつけられても、それはわたしに対してではない気がする。わたしを包んでいる何かがみんなにそうさせているだけで、わたしが何をしようと無関係なんじゃないかと思う」わたしは、と彼女は言う。「本当は、ここにはいないのかもしれない」
 耳の中で、スイッチを入れるような音が鳴った。
 私は稽古場に足を踏み入れ、鏡の前に立つ百花との距離をずんずん詰めた。
 百花が振り返る。左の頬には絆創膏が貼られている。
 私は彼女の額にデコピンをする。ゴツ、という硬くて鈍い音がした。小学生のころ男子を泣かしたことがあるほど威力には定評がある。
 百花は額を抑え、声にならない声で呻いた。
「痛いか」
「痛い」彼女は批難の眼を向けてくる。
「いるじゃん、自分」私は言った。「あんたは本物だよ。本物の存在だし、本物のアイドル」
 険のこもっていた眼から、何かが萎むように鋭さが抜けていく。彼女は目を伏せる。
「安い慰めは、いらない」
「じゃあ、どうしてほしい?」
 何かを探すように床を這っていた視線が、再びこちらを向いた。
「今の言葉が本物だって証明してほしい」

 止まることなく行き交う人々の足。
 見上げた街頭ビジョンには〈アキバク〉の七人。新曲のプロモーションらしい。〈殿〉は知らない顔で、〈家臣〉も大半が面識ない。
「いっそ〈姫ゴラ〉でもやるかね」私はアコースティックギターを下ろしながら言った。肩も指先も限界だった。「あんたが振り付きで歌えば、何人かは立ち止まるでしょ」

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