化粧室に入ると百花が鏡に向かっていた。
鏡の中には、ずぶ濡れの顔と空っぽな眼。映像を見てキャーキャーいうだけだった収録の後とあっては無理もない。
「またそんな顔してる」私は彼女にタオルを差し出した。「パパの言葉を忘れたか?」
「やめて」百花は受け取り、顔に押しつけた。「今まで何回聞かされたと思ってるの?」
「『アイドルは侍だ』」
百花はフンと鼻を鳴らす。
「アイドル乱世を天下統一」をキャッチコピーに結成された〈風雲☆秋葉原幕府〉は、芸能界でもそれなりの規模を誇るうちの事務所が始めたアイドルプロジェクトだ。所属するメンバーは総勢三十人超。純粋なアイドル志望者から、私のようにギターを弾く類いの歌手を目指していた者まで、とにかく事務所にいる二十代以下の女性タレントは大抵が所属している。
実際に表舞台に立てるのは、グループ内で選抜される七人だけだ。ここに入れないメンバーは〈足軽〉として事務所が経営する劇場で活動させられ、メディアに出ることはない。一方、上位七人に入ったからといっても、この中で〈殿〉と呼ばれるセンターが選ばれ、世間の注目はほぼ全てがここに集まる。他の六人は〈家臣〉として〈殿〉の脇を固めることになる。
他のアイドルグループであれば脇役にもファンが付いたりするのだろうけど〈アキバク〉に関してそれは得ない。越前百花というセンターが眩しすぎるせいで、その脇にいる人間に光が当たらないのだ。
百花はグループ結成以来〈殿〉の座を保持し続けている。
彼女の存在は圧倒的だ。歌もダンスも群を抜いている。顔も、単に端正というだけでなく、人の心を捉える表情を浮かべることができる。そして何より、彼女は努力の価値を知っている。人前に出るべくして生まれた人間はこうなのだと、近くにいると思い知らされる。
百花には全てが揃っている。揃いすぎていると言ってもいい。
例えば、プロデューサーの娘であるという出自は彼女にとって〈余計なもの〉かもしれない。それが却って彼女から大事な何かを奪っているようにも見える。
メイクを落として外に出ると、先に戻ったはずの百花が壁に隠れる形で角の向こうをうかがっていた。
「何やってんの」
振り返った彼女は「しっ」と私を制し、再び廊下を向く。私も覘く。〈家臣〉が二人、自動販売機の傍で話し込んでいる。普通に通れば良さそうなものだが、我らが〈殿〉はそうしない。
「てかさ」話しているうちの片方が声を潜める。「あいつ、こないだの反省会またいなかったよね」
「大好きなパパに叱られるのが嫌なんでしょ」
「どうせ家では可愛がってもらえるくせに」
「家の中だけにしてほしいけど」
あはははは、と少女たちは笑う。