小説

『うたかた』観月(『人魚姫』)

 3、一会
「あの、すいません。大丈夫ですか? 藍色の魔女さん?」
声が聞こえた。
聞きなれたタコの声ではない。
 はっと目を覚ますと、夕べ鏡に映っていた痩せた人魚が、心配げにこちらを見下ろしていた。
「起きるまで待とうと思ったのですが、うなされていたので……。あの、私、リュリと言います」
 やっぱり来たか。
 藍色の魔女は、無言で部屋の隅に山となったがらくたを漁り始めた。その中から古びたガラス瓶を取り出す。
「はいこれ」
藍色の魔女はリュリに瓶を押し付けた。
「ここで開けないでよ」
リュリは訳が分からないという顔つきで、手の中の瓶と藍色の魔女を何度も見比べた。
「これは私が作った、人間になれる薬。あんたは人間になりたい。人間の男に恋をしたんでしょ?」
 リュリはこくこくとうなずく。
「この薬を飲んだら、あんたはあんたの望む姿になれる。ただし、声は出なくなるわよ。それから、魔法の力もなくなる。慣れない足で歩くのだって苦労することになるでしょうね。あんたにいいことなんて、いっこもない。もう一つ、人魚に戻りたくなったら、愛した男を殺してその肉を食らうこと。でなければ人間から人魚には戻れないわよ。以上。質問ある?」
 リュリは目を大きく見開いて藍色の魔女を見つめていたが、次第に目が細くなり、眉根にしわが寄った。まるで泣いているような、笑っているような顔だった。
「いえ、いえ、ありがとうございます!」
「さっさと行きなさいよ。夜が明けて暫くすると、人間が活動を始めるわよ。あ、わかってると思うけど、その薬は岸についてから飲むこと」
「はい!」
 リュリは勢いよく海の底の家を飛び出した。
 藍色の魔女が家の外まで追いかけて見上げると、海面めがけてぐんぐんと登っていくリュリの姿が小さくみえた。
「あぁぁあ、やっぱりいっちまったかあ」
 今度こそ聞きなれた声が聞こえた。岩場の間から、吸盤のついた足がくねくねと姿を現す。
「あの子はどうなるかねえ。絶望して海の泡となるか、人間を喰い殺して戻ってくるか。それとも……」
「知ったこっちゃないわ」
 魔女は家の中へと戻った。
「あんたを家の中に招待したつもりはないわよ」
 と睨んだが、タコはそ知らぬふりで、藍色の魔女の後についてくる。
「馬鹿な子……。人間なんて、ちっぽけで意気地がなくて弱くて、ずるいのに……」
「そんなこと言って、あんたは人間にもらった着物をいつまでも着てるくせに。それにあんた、人魚の群れにも戻らないじゃないか。人間を食べてるのを見たことなんて、一度もないね」
 藍色の魔女は、無言でタコの頭に拳骨を叩き込んだ。
「今だけは人間だったらよかったと思うわ! あんたの頭を踏みつけてやれるからね! あたしはね、人間でも人魚でもないのよ。あんたがつけてくれたんだろ? 藍色の魔女って名前!」
 タコは吸盤のついた足で頭を撫でさすりながら「そうですよ、そうそう」と相槌を打った。
「俺のつけた名前を気に入ってくれて、何より」
 返す言葉が見つからずに、藍色の魔女は顔をしかめると、豪奢の飾りに縁どられた魔法の鏡をひとなでした。
 映し出されていた室内の映像が消え、次第に輝き始める。鏡から光が溢れ、藍色の魔女の影が部屋の壁にくっきりと浮かび上がった。
 鏡の中には、明けていく空と波立つ海面が映し出されている。
 よく見ると、波間に小さな丸いものが、ぽつんとと浮いていた。
リュリだ。
 太陽が昇り、晴れた空は水色で、白い雲が浮かぶ。
 小さな人魚は岸へ向かって泳いでいく。向こうには、人間たちの住む世界が見え始めている。
「あの子は幸せになれるかしら? そうしたら、あたしだって……」
 藍色の魔女は誰にともなくつぶやくと、再び鏡の上に指を滑らせた。
 光を失った鏡は、みるみる暗くなっていく。
 腐食し、しみだらけの鏡面には、ぼんやりと佇む小さな人魚が一匹、ただ映し出されていた。

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