小説

『やまない、やめる、やめた』真白(『羅生門』)

 相手はこちらの存在に気づいていないのか、動じなかった。何かを持っている。ジャージのようなそれを目の前に広げ、頭から被った。女生徒に背を向けたまま、やがて頭の頂が現れた。両手の袖を通し、着心地を確かめるように前後を整える。サイズ が合っていないことを誤魔化す動作にも見えた。
 女生徒は衝動的に教室の電気を点けた。跳ね上がるように震えた相手へと勢いよく向かっていった。今は好奇心のほうが勝っている。相手はこちらを向いて狼狽し、女生徒の席から離れて教室の外へ出ようとした。
「待て!」
 すんでのところで出口を塞いだ。相手は女生徒よりも小柄である。遥か彼方から見下げるような態度で声を発した。
「それ……」
 呼吸を整えつつ、相手の左胸に目をやる。やや弛んでいるジャージには、『佐々木』と刺繍がしてあった。
「私の……」
「あ…あ……」
 喉から精いっぱい振り絞ったような声が、女生徒の耳を捉えた。互いの目が合う。女生徒は改めて相手の顔をまじまじと見た。妙に痩せこけた頬に、二重瞼が印象的な―――名前は忘れたが、確か隣のクラスの男の生徒である。
「す、好きだから」
「え?」
「好きだから」
 相手は唇を震わせながらも、はっきりした口調でこう言った。女生徒は右頬のにきびが再び気になりだした。左頬は既に火照っている。相手はぽつりぽつりと話し始めた。
「俺、いじめられてて。教科書とか、上履きとか、筆箱とか、どんどん盗まれてなくなって。明日体育があるのにジャージが必要で、でもジャージもボロボロにされて、どこかに代わりがないかと思っていたら、ここにあったんだ。しかも、ずっと好きだった人のジャージで。明日終わったら洗ってすぐ返そうと思ってた。本当だ。ジャージがないと、先生にも怒られるしあいつらの思うつぼだし。嫌なことばかり起こってるし、これくらいやったっていいじゃん、て思った」
 相手は徐々に俯きながら、大体このようなことを言った。聞きながら、女生徒にはある勇気が生まれていた。
「そっか」
 女生徒のあまりにも素直な返答に、相手は思わず顔を上げた。その瞬間、唇に何かが触れた。眼前には女生徒の顔がある。驚きと共に、相手の中に何とも言い難い悦びが湧き上がった。女生徒は相手が脱力していくのを感じ取ったのを合図に、唇を離すや否や、相手を思いきり突き飛ばした。鈍い音とともに相手は床に倒れこんだ。腰を打ったのか、呻き声を上げる。女生徒は相手の通学鞄を手にしていた。さっきよりも相手が小さく見え、いよいよ態度が大きくなった。
「じゃあこっちも、これくらいやったっていい、よねえ?」
 返して、と相手が言うが早いか、女生徒は全速力で教室を後にした。相手の呻き声が薄暗い廊下まで響いていたが、聞こえないふりをした。

1 2 3