小説

『ある山月記 変わらない二人』立原夏冬(『山月記』)

「落ち着け!落ち着け!はあはあ、ふぅ…。ああ、すまなかった。最近では姿だけではなく、心まで虎になり始めている。こうしていても、いつ性根まで虎と化して、君のことを襲ってしまうかわからない。
 袁傪、そんなに口をあけて、驚くのも無理はない。いいか、君がどんなに僕のことを憐れんだとしても、この山に二度と入ってはいけない。虎と化した僕に追われれば、とても逃げ切れるものでない。いいか、この恐ろしい姿を目に焼き付けておくんだ。」
そう言うと、李徴は四つん這いになり、あたりをばたばたと走り回った。しかし、どう見ても二本足で走ったほうが早い。足と手の動きがちぐはぐで、何度も自分の腕につまずいたり、つんのめって顔を地面に擦りそうになったりしている。ひとしきり、あたりを走り回って袁傪の前に戻ってくると、李徴は息を荒げながら、
「ど、どうだ…、たとえ僕を…、哀れんだとしても。はぁ、ふぅ…。また、この道を通ろうなんて…、思わないでくれよ。」
 そう言って、喉から声にならない音を立てた。咆哮のつもりだろうか、老人が痰を吐いたような音が竹林に響いた。

 この様子を見て、袁傪はハハハと、大きく声を上げて笑いだしてしまった。涙を流すほど笑った後で、目元をぬぐいながら袁傪は言った。
「いやいや、李徴、心配には及ばないよ。そんなことが言えるなんて、お前に見えてる自分の姿は、さぞや大きな虎なんだろう。いや、それがどんなに大きな虎でも問題ないさ。俺を見ればわかるだろう?いかな虎でも、龍には勝てないさ。」
「はあ?龍?」
 李徴は怪訝な顔で袁傪を見た。袁傪はニコニコと笑みを浮かべたまま話し続ける。
「それにしても、二人がこの山で再会したのも何かの縁かもしれないな。俺の生家はこの山のふもとにあってね。お前が辞めた後も俺は役人として働き続けて、ついに生まれ故郷のこの土地に長官として赴任することになったんだ。そう、まさに故郷に錦を飾ったといっていい。そうして、この地に帰ってきて一年ほどたった頃のことだろうか。ある夜、俺の夢の中に仙人が現れたんだ。」
「なにを言っているんだ、袁傪?」
 李徴が口をはさんでも、気にする様子もなく袁傪は続ける。
「その仙人が、俺に言ったんだ。お前は人格に優れ、仕事にも熱心に励んできた。ついには出世して帰郷し、親にも孝行した。ここまで徳を積んだお前のために、何でも一つ願い事をかなえてやろう、と。この時、俺は小さいころからの夢を思い出した。うちには代々伝わる一幅の書画があって、そこには一匹の龍が描かれている。俺は昔から、その龍のような、堂々とした存在になりたいと思っていたのだ。そう思ったところで、俺は夢から覚めた。すると、この姿になっていたんだよ。」
 李徴はまじまじと袁傪の顔を見た。李徴の目に映る袁傪の姿は、腹の突き出た髭面のおじさんであり、どうみても龍などではない。袁傪は満面の笑みで李徴を見ている。そして、袁傪は嬉しそうに、李徴に聞かせるでもなく呟いた。
「いやあ、こんなに変わった俺の姿を見ても、旧友だとわかってくれるとはねぇ。少しくらい頭がおかしくなっていても、やはり友人とは良いものだな。」

 李徴はげんなりして、袁傪に言った。

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