小説

『知らすが仏』山賀忠行(『蜘蛛の糸』)

 ――ダーン……
 体が勢いよく地面に打ちつけられた
「つっ……痛え……」
 健三は腰をさすりながらゆっくりと立ち上がった。周りを見回すと暖かい陽に照らされた赤い曼珠沙華の花が一面に広がっていた。蓮の花の淡いピンク色と活き活きとした葉の黄緑色は曼珠沙華の赤い絨毯の中に水玉模様を作り上げており、ほのかな香りが鼻腔を優しく撫でた。
「着いたのかぁ」
 少し離れた場所で倒れていた史郎も随分乱暴だなあとこぼしながらゆっくり立ち上がりと
「ほぉ、ここか」
 としみじみと見回した。二人は地獄ではありえなかった体いっぱいに陽の温もりを感じながら達成感に浸った。
 しかししばらくすると鳥の声も風の音も一切聞こえない不思議な静けさと曼珠沙華と蓮の花だけが遥か彼方まで広がっているだけの想像とは大きくかけ離れた光景は底知れぬ不安をもたらした。
「おい……俺らどうすればいいんだ」
 健三は背中が凝固していくのが感じられた。
「誰かいないのかー。おーい」
 史郎は不安に負けじと大声で呼びかけた。
「おーい、糸を垂らしていたやつはいないのかー、おーい」
 健三もつられて叫んだ。
「ここには誰もいないし何もない」
 いきなり船の汽笛のような妙な余韻を残す太く低い声が二人の体を揺らした。
「――誰だ?」
「誰だっていい。だがな、ここはお主らが思っているような場所ではない」
「ここは善行を重ねた人が行く……」
「いや」
 声は健三の言葉を遮った。
「たしかに現世で善行を積み罪のないものはここに来ることが許される」
「でもここには人も物も何もないじゃないか」
 健三が反論すると声は鋭く言い放った。
「お主は罪のない人間がいるとでも思っているのか」
「え……」
「いくら善行を重ねようが修行をしようが罪のない人間なんて存在しない。そもそも生き物というのは他の犠牲があって生きていけるのだ。生きることとは他を殺すことなのだ。罪を背負わなくして生き物ではない。だからここに来るものは誰もいない。だからここには何もないのだ」
 健三は呆然とした。顔の力は抜け口は開いたままだ。史郎はよほどショックだったのだろう言葉を出す余裕もなく失神して前のめりに勢いよく倒れこんだ。
「ではなぜここが存在するのでしょうか、誰も来ることができないのに……何の意味が……」
「お主ら愚かな人間は地獄しか存在しなかったらそれを地獄とは思わないだろう。そうすれば善行をする人などいなくなる。地獄が地獄であるためにはその反対のこの世界が必要だ。所詮ここは人間にとっては『地獄に行きたくない』と現世で善行をするための世界に過ぎない」
 なんとか立っていた健三も後ろから殴られたかのように膝から崩れ落ちた。
「じゃあ……なぜ地獄に糸を垂らしたのでしょうか……どうして私たちをここに……」
「普通は地獄に落ちた時点で人は絶望で心を失って血の池に沈むものだ。しかし中には心を失い切らない人もいる。だがそんな人間たちも細い糸を上っては切れて地獄に再び落ちるということ繰り返しては遅かれ早かれ天への欲は消え去り同じように心を失う。しかしお主たちは他の者と違い現世の心が完全に残っていた。だからたとえ糸からお主たちを落としたとしても希望を持ち続けていたであろう。だからこうやってこの世界を見せてやったのだ。私は地獄から解放してやることはできない。それが掟だからだ。だが私も悪魔ではない。せめて私ができることは心を奪って地獄の苦痛を和らげてやることだ」
「――最後に……一つ聞かせてください……私らはどうすれば……」

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