小説

『知らすが仏』山賀忠行(『蜘蛛の糸』)

 健三は地獄の血の池の底で漂いながらはるか遠くの天に続く小さな穴を見上げていた。その穴は地獄の暗闇に天からの一筋の光を恵んでいる。
 穴の向こうはどんなところなのだろうか、行ってみたいものだ……
 毎日のように想像しては無理なことなのに諦めのつかない自分に嫌気がさし一人溜息をついていた。周りには今まで地獄に落ちた悪人どもがうじゃうじゃといるはずだがその存在を感じることは滅多になかった。それは現世で悪事を働いた悪人どももこの暗闇の中の血の池の底で浮き沈みを繰り返す日々に絶望し『心』というものを失ってしまっているからであろう。地獄に落ちたばかりの者の中には不平不満罵詈雑言を大叫びする元気な奴も今までいなくはなかったがそんな奴らも叫べば叫ぶほど孤独と無力さによってその元気もいつの間にか絶望に変わり絶望は心を侵食し道端に転がる石のような存在になってしまう。これが地獄という場所であった。
 健三が地獄に来てからちょうど10000回目の溜息をついたとき
「おい」
 と背中を叩かれた。
「ん?」
 振り返るとそこには史郎がいた。史郎は健三の双子の兄で現世では一緒に大量の強盗事件を起こした。しかしある銀行を襲った後軽自動車で逃走する際に交差点でダンプカーと正面衝突し二人とも即死、一緒にこの地獄に落ちたのであった。
「健三、お前あれについて考えていただろう」
 健三の心を見透かしたように天を指さしながら言った。
「ああ、まあな。はぁ……」
 少し恥ずかしそうに目をそらすと健三は10001回目の溜息をついた。
「あんま溜息ばかりついていると幸せが逃げるぜ」
「幸せねえ……そんなのここにねえよ」
「まあそう思うのも無理はない。だけどな、そうとも言い切れないんだよ」
「どういうことだ」
 幸せに飢えていた健三はすぐに食いついた。
「天から垂れてくる糸を使うのさ」
「はあ……なんだよ。そのことかよ。期待して損したぜ」
 健三は10002回目の少し長めの溜息をつくと舌打ちをした。そして
「史郎なあ、今まで何度か糸が垂れてきたことがあったけどな、みんな結局糸が切れて地獄に逆戻り、これをずっと繰り返しているんだ。天上の人たちはそんな惨めな姿を見るのが趣味なんだろうけど俺はそんな悪趣味に付き合う気はねえぜ」
 と吐き捨てた。
 しかし史郎はその返答を想定していたためうんうんと頷くと
「やっぱりな、言うと思ったぜ。だけど俺は気が付いたんだ」

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