小説

『知らすが仏』山賀忠行(『蜘蛛の糸』)

 健三の目をじっと見ると
「よく考えてみろ。あんな大量の人数の重さが細い糸に同時にかかったら切れることなんて少し考えればわかることだろう。冷静に順番に上ればいいものを。なのに奴らはそれを繰り返している。だけど俺らは奴らと違い理性で物事を考えられるからそんなミス犯さないだろう?」
「うーん……まあたしかに……」
「俺らだけで糸を上ることができれば糸は切れないからこの地獄からおさらばできるってことだ」
 史郎は自分で言いながら気分が高揚し始めていた。しかし健三はまだ納得していない様子だった。
「じゃあどうやって?」
「今は言えない。万が一天の奴らに知られたら糸を垂らしてくれなくなるかもしれんからな。つまらないリスクは今は少しでも減らしたい」
 健三は生前ではありえないような史郎の慎重さに驚いた。
「まあ史郎の言いたいことは分かった。でも仮にうまくいったとしても上りきる直前で糸を離される可能性もあるぞ」
「それは大丈夫だ。なぜなら糸を持っている奴らは俺らのような悪人じゃない。善人だ。善人が上りきる直前で落とすなんて道義に反したことすると思うか?そんなことしたらそいつらも地獄に落とされるぜ」
「しかし現に何度も糸が切れて落ちるっていう残酷なことを繰り返しているじゃないか」
「さっきも言ったがあれは同時に群がって上る奴らが馬鹿なだけだ。俺の作戦通りにやれば絶対大丈夫だ、うまくいく。だから信じろ、な」
 健三は史郎にうまく言いくるめられたようでもやもやと感じるものがあったが今まで見たことのないような自信気な史郎を見ていると本当にうまくいくのではないか思い始めた。それにこの地獄での生活もそろそろ限界だった。健三は史郎を信じることにした。
「よし分かった。俺もなんだか行ける気がしてきたよ。史郎に任せるよ」
「よかった。早速、具体的にどうするかということなんだがとりあえず糸が垂れてこないと始まらん。しばらくは辛抱して待つしかない」
「ここから抜け出すことができるならいくらでも待つさ」
 健三は希望に燃え始めた眼差しで光を見つめた。

「――まだかねえ」
 しばらく待ったある日、健三はまた溜息をつこうとした。しかし溜息ばかりつくと幸せが逃げるという史郎の言葉を思い出し、息を止めて何とかこらえた。現世では馬鹿にしていた縁起なんてものを信じている自分が滑稽だった。
「まだかまだかと待っている時間がとてつもなく長く感じるのはこの世でもあの世でも変わらないんだなあ」
 史郎は腕組みをしながらつぶやいた。
「まだ俺らが人間らしさを失っていない証拠だな。ところで向こうに行ったら史郎はなにする予定だい?」
「とりあえず温かい風呂に入ってうまい飯食って布団で寝たいなあ。あとうまい酒も」
 史郎はニヤリと杯を飲むしぐさをした。
「いいねえ。もうこの血の底に沈んだ生活はこりごりだからなあ。俺もあっち行ったら遊ぶぞぉ」
 健三も天の世界を満喫する自分の姿を思い浮かべるとニヤリとした。

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