「すまない、その前にちょっと用事を済ませてくる」
優汰は泳いだ目を極力亜津沙に向けずにそう言い残すと、監視員に深々と頭を下げて山を降り始めた。決して振り返ることはなかった。
亜津沙はその背中が小さくなるのを見つめていた。やがて、優汰は霧の中へと消えていった。
立ち尽くす亜津沙は、肩に誰かの手が触れるのを感じた。
「そろそろ、行きましょうか」
感情の伴わぬ口調で監視員が告げる。亜津沙は黙って頷いた。
「これをどうぞ」
亜津沙は男から通信機器のようなものを手渡された。手のひらに収まるサイズのそれは、一面が大きなディスプレイになっていた。
「何かあればこれを使って下さい」
真剣な口調の男に亜津沙は思わず笑いそうになった。棄てられておいて、何かあればとはおかしな話である。そもそも、ここへ来る者に理解できるはずもない。きっと、私たちが逃げ出さないよう、行方を監視するためであろう。いや、しかし、それなら体にチップを埋め込むなどした方がよほど確実である。いずれにしても馬鹿らしい。
「どうも」
そう言って亜津沙は歩き出した。
しかし、突如として激しい睡魔が亜津沙を襲った。きっと、蓄積した疲れが出たに違いない。昨晩の睡眠も十分ではなかった。
亜津沙は視界に入った巨大な岩に腰掛けた。斜め上に向かって伸びるその形は、さながら大きな座椅子のようで心地良かった。不思議と優しく身を包むような柔らかさを感じた。これまで、ここへやって来た多くの人々が、同じようにして体を休めたことだろう。
空を眺め、そっと目を閉じ、やがて眠りについた。
その時、さっき男に手渡された機器から、この場に不釣り合いな電子音が鳴り、目が覚めた。ぼんやりと曖昧な意識の中、亜津沙は慌てて閉ざした目を開き、ディスプレイに目をやった。
『優汰』と、ある。
「はい、もしもし」
画面にはソファーに座る優汰の姿が映し出された。
―母さん、俺だけど
「あなた、もう下山したのかい」
―下山? なに寝ぼけたこと言ってんだよ
「あら、私、あなたに山に棄てられたんじゃ」
―おいおい、息子を極悪非道な人間にしないでくれよ。夢でも見たのか?
「夢?」