小説

『鼓動』ウダ・タマキ(『姥捨て山』)

「私のことより、自分のことを考えなさい」

 母の介護を申し出た時、亜津沙が言った言葉が優汰の脳裏をよぎった。この先に待つ決して遠くない未来は、母の望むものではないはずだ。棄老法の利用は将来を案じた彼にとって苦渋の決断であった。
 優汰は、何も分かっていないであろうと思っていた亜津沙であるが、実は彼女こそこの事態をしっかりと理解していた。
 棄老法が国会で議論されていた頃から、亜津沙の認知症は著しく進行し始めた。日に何度も食事を欲し、時に我が息子を認識できぬこともあった。しかし、それは子を思う母の優しさだった。つまり、亜津沙は重度の認知症を演じていたのである。自分が棄老法の対象者となり、優汰が法で裁かれることなく自分の介護から解放されて定職に就き、人生の再スタートを切ることができるよう仕向けたのだった。

 優汰の膝は限界を迎えつつあった。ほとんど感覚を失い、残された気力と根っからの負けん気の強さで最後の急勾配に臨んでいた。
 姥捨て山には至る箇所に監視カメラが設置されている。不正だけは許されないのだ。最後まで自力で登りきること。その過酷さこそ命の尊さ、命を棄てることの重大さを感じさせる最後の試練であった。
「もう少しよ、頑張って」
 背中で呟いた母の言葉に、優汰は涙を流した。無邪気であり、健気に思えて胸が痛かった。あと数歩で母との永遠の別れが訪れる。これまで何度引き返そうと考えたことだろうか。

「私はあんたさえ楽になるんなら、こんな最期もいいねぇ。誰の目も気にせず、自然に身を任せるというのもね」

 棄老法のニュースを見ながら亜津沙がそう漏らした。重度の認知症だと思ってはいたが、その言葉はとても亜津沙らしいと優汰は感じた。それは本心だと確信した。

 いよいよ、優汰は登頂に成功した。姿勢を低くし、そっと亜津沙をその背から下ろす。
 山頂はよく晴れていた。霧は風に吹き散らされ、別れには相応しくない青い空が広がっている。
 その景色は不思議なものだった。山頂であるにも関わらず、そこには赤い土と灰色の岩が転がる広大な景色が広がっている。どこまでも続くそれは、まるで、どこか地上の荒野にいるかのようだった。抜けるような青い空との対比が、ここがより荒涼たる地であることをより強く感じさせた。
 亜津沙はこみ上げてくる感情を押し殺した。別れの言葉を告げることは、優汰にとってあまりに残酷であり、何より棄老法に反してしまう。亜津沙は監視員の視線を気にしながら、努めて笑顔で振る舞った。そして、意図してとぼけたふりをした。
「楽しいピクニックやったねぇ」
「あ、ああ……」
「さぁ、何か食べようかしらね?」

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