小説

『メタモルフォーゼ』N(えぬ)(『変身』)

 もう、当に来ていた手伝いの正子が邦子の母親に、邦子が起きてこないことを告げた。それだけで家中に嫌な雰囲気が漂った。
 母親が邦子の部屋のドアをノックした。けれど返事は無かった。そこで母親は覚悟を決めたようにとって返し、まだ寝入っている夫を揺り起こした。
「邦子が起きてこない。ノックをしても返事も無いわ」
 父親はそう云われて、くっきりと目覚め、ベッド脇の妻を押しのけるように起き上がって、それでも考えはまとまっていなかったようで、それ以上どうすればいいか思いつかぬように立ち尽くした。
「一緒に来てくださいよ」
 妻に促されて夫もあとをついて邦子の部屋に向かって歩き出した。
 邦子の部屋の前では、ちょこんと正子が平常と変わらない顔をして二人を待っていた。
 悲しい確信で固くなった妻の顔と、そのあとに続く夫の、希望の無い寝ぼけた顔が対照的だった。そして彼らは、いればこの家族の中で最も冷静で機知があり愛情のある女性の部屋のドアを再度ノックした。
 返事は無かった。けれど耳をそばだてると何か気配はした。
 邦子の部屋のドアには中から鍵が掛かっていたから、押し入る以外に方法は無かった。父親が三度ばかりドアに体重を掛けて強く押すとドアの鍵の部分の木枠が割れて、あとは押し開けることが出来た。
 部屋の中に、父親、母親、正子の三人の順で入っていったが、一見、邦子の姿は見えなかった。けれど邦子がどこにいるのかすぐに察しがついた。邦子が寝ているはずのベッドの掛け布団が、見た目は大した乱れもなくベッドに掛かっているが、その下で何かがモグラのように動いているのが見て取れた。
 この様子を見て父親と母親はまた邦夫のときと、いやそれ以上の絶望を感じ取っていた。
「どうして私たちは、こんな目に合うのか」母親がことばを漏らした。
「一家の希望が」父親が云った。正子は何も云わないことにした。
 ベッドの傍らの三人は、ベッドの掛け布団の下で何かがゆっくりモゾモゾ動いているのをハッキリ見ていた。何かがこの布団の下にいるのだということを明白に感じ取れていたはずだが、それを単なる「予想」のままにしておきたい気分だった。この布団をめくってしまったら、存在を認識し認めてしまうことになる。それが怖くて堪らなかった。
 モゾモゾと動く掛け布団を剥いだのは正子だった。父親と母親は、下手をすれば数日くらいは、この現象について目を背けて様子だけをうかがって過ごすくらいのことをしそうだったからだ。
 掛け布団の下には、おおよそ予想通りのものがあった。
 緑の輝きを放つ甲殻に覆われた虫。ただし、それは邦夫のときより二回りか三回りか小さかった。「邦夫虫」と違って、「邦子虫」は抱きかかえられるくらいの大きさだった。けれど、だからと云ってソレを愛情込めて抱え上げ抱きしめようとは誰もしなかった。
「邦子……。どうして、邦子まで」
 母親が「邦夫のときはしかたがなかった」とでも云うように嘆いた。

 邦子の父親と母親は、どうにもならないことと悟り、やがて気持ちに整理を付け、以前に邦子自身が云っていたとおり、虫になった彼女を外に放つことにした。

1 2 3 4 5