小説

『メタモルフォーゼ』N(えぬ)(『変身』)

 もうこれで、あの虫はすっかり彼らの目の前から消え失せた。

 あの得体の知れない不安をもたらす虫の消滅により、家族には平穏の空気が戻って来た。妹邦子の表情はいまだ曇っていたが、父親と母親とは明らかに表情が明るくなった。手伝いの正子は、それを「いいことですよ」と喜んで見せた。
 父親は、邦夫のことを「何かの運命だったのだ」といい。虫にかき乱された生活もつらかったが、早く立て直して、またみんな頑張ろうと、柄にも無い演説を夕食時に妻と娘に話した。妻はそれを嬉しそうに微笑んで聞き、娘邦子は父のそのことばが、兄邦夫が遠く離れて行くことを意味しているようで、またうっすらと涙を浮かべて聞いた。
 邦子は夕食がすっかり済んでしまったあと、父親と母親と三人でお茶を飲んでいるときにこう云った。
「父さん母さん。もし私が邦夫兄さんのようになったら、窓を開けて外に出してちょうだい。そうしたら私はきっと、森に向かって飛んでいくわ。兄さんはきっと外を飛んでみたかったのよ。
そして森で生活をするの。それがきっと、虫の正しい生活よ。どこかの木の樹液なんかを嘗めて生きるのよ」
 邦子がそういうと父親は青ざめて立ち上がり邦子を絶望的な色の目で見た。母親は、
「邦子。なんてバカなことを!あなたがそんなことになるはずが無いじゃ無いの!」
 必死に根拠も無く否定し、たしなめた。
「邦夫兄さんがああなったわけは、結局分からないのでしょう?だったら、いつか他の誰かだって、そうなるかも知れないと云うことでしょう?……そのときになって、また右往左往してわけも分からずただ放置されるのは、私はイヤだから、必要最低限のことだけを決めておきたいの。虫になったら、私は「本来いるべき場所」だと思う森に放って欲しい。そういうことなのよ」
 邦子の云うことは、それは確かにそうだった。息子の邦夫がそうなった理由など誰にも分かっていなかった。ただただ「なんでこんなことに」と泣き言を言うだけの日々だった。自分達の嘆きを気にするだけで、当の邦夫が今どういう気持ちでいるかなど考えたことも無かった。会話も読み書きも通じなくなった虫と意思疎通することを最初にあきらめて、それっきりだった。
 父親は青い顔でただ突っ立って邦子を見ている。それに対して母親は、
「そうね。わかったわ」
 うつむいてそう云った。それを聞いて父親は急に声を荒らげた。
「せっかく一つ大きな問題が解決したのに、そんなことを……」
 父親はそう云って酒を一杯一息に飲み干した。
「私、今日はもう寝るわ」
 邦子は自分の食器だけをキッチンに片付けて寝間に引き取った。

 
 邦夫のことを心の片隅に追いやって、ほぼ忘れたようなころ。
 そう。平穏というものの期間は、大体決まった間を保ったのち、また破れることになっているようだった。
 その日は、邦子が朝食の支度に起きてこなかった。

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