父と母と末娘の邦子の三人が長男邦夫の部屋に集まっていた。
邦夫は小さいときから少し知恵が足りなく挙動がやっかいな人間だった。それは医者によって医学的な説明が両親に申し渡されていた。それで彼はほとんど部屋にいさせられて育って来た。
ある日の朝、邦夫はベッドの上で一匹の、人ほどもある大きさの茶色の甲虫になっていた。それはもちろん家族すべてを驚愕させた。
会話も出来ず、人とは意思の疎通がほぼ出来なかった。
「この虫は邦夫なのか?」それを確認することは出来なかった。状況がそう思わせるだけだった。
そしてなにもしないまま2週間近く経った。
最初の三日。救急車を呼ぼうかと家族で話し合ったが、父親が頑強に反対して取りやめになった。
そうしている間、家族は食事もろくに喉を通らなかったが、虫になった邦夫も同様に何も食べていなかったわけで、そのせいなのか4日目に「虫の邦夫」は床の上で腹を上に向けてひっくり返ってしまった。
邦夫はただひっくり返って虫特有の骨張ったような干からびた棘のような脚を少しジタバタさせて見せるくらいのことだけが出来た。
彼のその姿は害虫に殺虫剤を掛けたときの、虫の断末魔によく似ていたから、父親も母親も妹の邦子も、「たぶんそういうことなのだろう」と察していた。
そうして邦夫の姿を見ていてももうどうにも出来なかった。医者に相談するわけでも無ければ、「もしや効果があるかも知れない」と祈祷師にでも相談できたかも知れないが、手をこまねいて事態を見ているばかりだった。今家族の目の前にひっくり返って腹を向けて脚をギコギコさせているのは、父親と母親にとって、もはや「虫」そのものであって、我が子では無くなっていた。妹の邦子だけがわずかに彼に兄という認識と感情を示していた。
邦夫のその苦しみから来るギコギコした動きも、徐々に鈍くなって行った。それは見るからに最期を意識させた。
毎日、家事の手伝いに来ている親戚の正子が部屋に入って来て、家族たちに交じって邦夫を見た。
「もうだめそうだわね」
正子のそのことばは、至って平坦な調子で、「私にはなんの関係も無いこと」という実感がこもっていた。だがそれは、妹邦子の兄への愛情を上回りはしていなかったが父親と母親の見せる邦夫への感情よりまだ少し情があった。
父親と母親にとっては、もう邦夫は疎ましい厄介者であり、家に巣食う害虫の一匹に過ぎなくなっていた。だから正子が「もうだめそうだわね」と云ったとき、父親と母親も同様に「だめそうだ」と思い、さらに加えて「これで終わる。よかった」という安堵も心に登っていた。
邦夫の脚がギコギコ動くのは長く続いたので、みんなそこでずっと見ていることはしなかった。時々部屋を覗いて邦夫の様子を見るだけだった。