小説

『メタモルフォーゼ』N(えぬ)(『変身』)

 邦子は、少し前から邦夫のそばに椅子を置いてゼンマイの巻きが終わるように止まり掛かった邦夫の脚の動きを見ていた。
「もう、動かないみたいだねえ」
 部屋を覗いた正子が邦子に云った。邦子は正子が後ろから「もう……」と云ったとき、ゆっくり同意を示して頷いた。
 父親と母親もやって来て、動かなくなった邦夫を見届けた。父親が近寄ってつま先で虫の脚をちょいちょいとつついたが、脚は何の反応も示さなかった。そのやり方に邦子が、
「父さん」
 と、一言だけ諫めるような苦言のような、嘆きのようなことばを云った。
 邦夫だった虫の亡骸は、人として全うに葬る手順など取られなかった。
「あたしが始末しとくわ」
 正子が気を利かして名乗りを上げると、邦子も手伝って、もう動かない大きな虫の後ろ脚をむんずと掴んで引きずって、部屋から部屋へとズッて行き、台所の勝手口から外へ出した。
 勝手口の外は何かしらのゴミやら不要品などが置かれた少し広い場所で、そこの一番端の少し背の高い木の陰に虫の死骸を置いた。
「ここでいいんじゃない。虫なんだから」
 正子が邦子に、至って当たり前そうにそう云うと、
「兄さんは、よく、外で遊びたいと云っていたわ」
「ああ、そうだったねえ」
「せめて埋めてあげたい」邦子が云った。
けれど正子が、これほどの体を入れる穴を掘るのは無理だから、もうこれでと説得したので邦子も渋々納得してその場を離れた。
 邦夫が木の陰に放置されたあと、程なくして多くの蟻がその死骸にたかっている姿が見えた。ほかにもあまり見かけない虫もいた。一日が経つころには死骸はほとんどバラバラになっていた。そうして死骸の形が消えて行くのを父親と母親と妹と正子はときどき見に行って確かめて、それぞれに安堵や悲しみを積み重ねて行った。
 まる二日が終わるころには、邦夫だった虫の死骸はほぼ何も無くなってしまっていた。夕方に父親が木の陰に見に行き、もうそこに、例のギザギザした「虫の脚」が一本残っているだけだったのを見た。その脚にもアリが黒々とたかっていたが、父親はその脚を拾い上げると、少し先の草むらの中へ放り投げた。そして、木の陰に出来ていた「染み」を靴で土を平らかにして消し去った。

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