小説

『本当の恋人』淡島間(『スカボロー・フェア』)

 熱心な説得を背中で聞きながらも、私はブラウスのボタンをはずす手を止めなかった。ばっ、と、背中からはがした時には、マスターもさすがに、控え室を出て行かざるを得なかった。
 このことを知らせると、
『それでこそみはつちゃんだ。君は昔から血の気が多かったから』
 と、彼は愉快そうに綴った。拍手喝采が聞こえてきそうなくらいの喜びようだ。
 この頃になると、私は何の気兼ねもなく、身の回りの出来事について、彼と共有できるようになっていた。文通の回を重ねるにつれて、よく考えもしないで、自分の特徴や生い立ちなど、うっかり書いてしまうこともあった。しかし、後から「しまった」と思い返しても、彼は不審に思わないようだった。どうやら、筆跡ばかりではなく、容姿や性格まで、私はみはつさんに似ているらしい。
 私はもはや、みはつのふりをしなくても、つまり、無理に自分を隠さなくても、自然に彼と言葉を交わせるようになっていた。
 私が彼の本当の恋人なのでは、と思えるほどに。

 冬の初めに届いた手紙は、これまでになく切羽つまっていた。
『一刻も早く帰ってきてほしい。もう、みはつちゃんがいないと、村は、』
 と、大変な騒ぎだ。以前から幾度となく、同じ文言を目にしてきたが、何とかはぐらかし、今日まで続けてきた。しかし、今回はそんな軽い決まり文句ではない、気休めの約束では受け流せない、必死の懇願だった。
もはやごまかしきれない。これ以上、嘘をつきたくない。
 一晩、悩んだ末に、私は、自分の正体を明かすことに決めた。
今まで、みはつさんになりすましていて、ごめんなさい。私はみはつさんではありません。本当にごめんなさい。でも、私がこれまであなたに差し上げた言葉、あれは嘘ではない。あなたが困っているのならば、私が村へ行きます。あなたに会いに、助けに行きます。だから、どうか待っていてください。……。
 書きながら、様々な感情が胸に迫ってきた。知らず、涙は紙を濡らした。ペンを走らせながらも、目に浮かぶのは、白い砂浜と、深い深い藍色をした、空の果てまで広がる海だった。
書き上げた時には、既に夜が明けていた。私はコートを着るのももどかしく、半纏のまま、外へ飛び出した。
 が、どうも様子がおかしい。いつもの丸型ポストは見当たらず、畑の周りを回っても、赤い筒はおろか、置かれていた跡も名残も、何も見つけられなかった。

 結局、手紙は出せずじまいになった。他のポストに入れたところで、郵便受けに戻ってきてしまう。住所を調べると、その村はかつて、発電所の建設予定地にされ、辛くも逃れたものの、もう四十年も前に廃村になっていた。村へつながる道は封鎖され、今は誰も、立ち入ることはできないという。

 一体、私は誰と――何と文通していたのだろう。
 届いた手紙の束は、一握りの白い砂になった。それを、出せなかった手紙と一緒に袋に入れていたが、いつの間にか、行方知らずになった。
 こうして思い返せば、異国の古い歌のように、つかみどころのない、夢のような話だ。
けれど、私は時々考える。彼は今でもあの村で、恋人の帰りを待っているのではないか。パセリ、セージ、ローズマリー、タイム、と口ずさみながら。

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