小説

『ある彫像について』平大典(『地獄変』)

 夫から私が破壊した彫像の話は聞きませんでした。
 もう顔を合わせることはない。警察に通報したかもしれないが、私が破壊したことは露見していない。
 罪悪感はありましたが、私はほっとしてしまいました。
「もっとお話を聞いてみたかったけどね」心にもないことを口にしました。
「まったく残念だなぁ」
 夫はしみじみと呟いていました。

 
 数年が過ぎ、私は夫と別れました。
 別にあの彫像のせいではありません。私と姑の関係が悪化し、お互いに居心地が悪くなっていったのです。よくある話です。
 私は、実家に帰ることになりましたが、離婚してすぐにニューヨークへ一人旅に向かいました。友人や親は傷心旅行と揶揄していましたが、私としてはちょうどいいタイミング、程度のことでした。
 米国ではニューヨークに長く住んでいる高校時代の友人に案内をお願いして、ランチをしたり、街中を散策したりして過ごしました。
 二週間ほど過ぎた頃のことでした。あるギャラリーの前を通ると、日本人作品の特集展示が開かれていることに気付きました。友人との待ち合わせ時間までの埋め合わせのつもりで、中に入りました。
 旧いビルを改装してあるギャラリーには客が少なく、私はゆっくりと作品たちを観ました。
 息が止まったのは、ある作品の前でした。
 彫像。作者は、荒木さんでした。作品名は日本語で『地獄』と表記されています。
 その彫像のモチーフは、女性でした。
 ほかの人には男性、いや、得体の知れぬ獣かなにかの彫像に見えたかもしれません。ギリシャ神話にでてくる神々などの要素がちりばめられているようでしたが、私はすぐに理解しました。
 うずくまって暴れる女性。手は何を引き剥がそうとし、白い歯を剥いています。
 まぎれもなく、それは私でした。『沈黙』という名の夫の彫像を破壊したときの。
 直感しました。荒木さんに見られていたのだと。人生で最も醜かった時の自分を。
 顔が熱くなっているのが分かりました。全身から汗が噴き出し、思わず拳を握ってしまいます。
「こんにちは」
 振り向くと、懐かしい姿。
 荒木さんがそこに立っていました。前と変わらず、おとなしい女性という印象でした。
「……綾さん、実くんの奥さんですよね」
 拳が震えます。
「お久しぶりですね、荒木さん」私は無理やり笑みを作ります。「よく気づきましたね」
「ええ、もちろん」彼女の笑顔に悪意は感じませんでした。「日本の知り合いに、まさかニューヨークで会うなんて。でも、すぐにわかりましたよ。とてもきれいな人でしたので」

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