小説

『ある彫像について』平大典(『地獄変』)

 やはり荒木さんの姿はありません。
 テーブルには、彫刻刀が几帳面に並べられており、壁際には布が被せられた作品がいくつも並んでいました。まだ製作途中のものだったのでしょうか。芸術家の作業場に足を踏み入れるなど初めてでしたが、とても神聖な場所に感じられました。
 目的の彫像は、部屋の真ん中に置かれていました。覆っていた布を剥ぎ取ると、姿を現したのは、『沈黙』という名の男の彫像。
 展示会で観た時と印象に変わりはありません。私は指を伸ばし、彫像の冷えた頬に指を触れました。それから額まで撫でました。
 そして一層確信しました。
 これは、夫だ。夫、そのものだと。
 ある時の夫が、私の知らない頃の夫が、時間が止まったまま再現されている。
 不気味でおぞましいと思いました。
 彫像を眺めれば眺めるほど、私の心の中で憤怒の念が渦巻いていきます。うまく呼吸が出来ませんでした。
 ついに、自分の中の衝動を抑えられませんでした。
 私は彫像を押し倒し、無我夢中で踏みつけ、テーブルの上にあったハンマーを使って腕や顔をもぎ取りました。嗚咽が漏れ、眼から涙がこぼれていました。人生でこんなに取り乱したことはありませんでした。
 冷静になった私の足元には、バラバラになった木の破片が拡がっていました。
 どうやって帰宅したのかは覚えていません。
 荒木さんから連絡が来ることはありませんでした。自宅で保管していた彫像が破壊された、と警察に通報したという話も聞きませんでした。
 罪悪感だけが心の中に残っていました。

 
 数か月後のことでした。週末の真夜中、夫とリビングで晩酌をしていると、不意に荒木さんの話題になりました。
「そういえば」夫はウイスキーを口に含みながら話しました。「荒木さんなんだけどさ」
「荒木さん?」
 私はとぼけたふりをしてしまいました。
「あの、何か月か前に、美術館で会ったじゃないか。彫刻家の人だ。覚えてないのかよ」
「思い出した」私は動揺を隠すようにウイスキーを口に含みました。「大学時代のともだちだったって人だよね」
「彼女ではないからな」夫は念を押してきました。「実はさ、飲みにでも行こうかと思って、彼女に連絡をしたんだよね。もちろん、綾さんも一緒にさ」
「へえ」私は息をのみました。「どうだって?」
「もう住んでいないんだってさ」
「え」
「引っ越したんだとさ」夫はつまらなそうに顎を摩りました。「どうも今度は東北地方に住みたくなったからって。思いつきで、二カ月前に」
「家はどうしたの? 買ったんじゃないの?」
 夫は顔を顰めました。
「売ったんだろうな」

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