小説

『月に願う』吉倉妙(『赤い靴』)

 自分が事件に巻き込まれるなんて、日ごろ思ってもいないから、最悪の事態を想定できなかったのです。
 戸籍や住民票を取得るために必要な委任状はレターパックで届けられ、取得した書類を私書箱宛に返送する。――たったこれだけの仕事量に対して、驚くほど高額な報酬が支払われることに一抹の不安はありましたが、とりあえず暫らくの間だけ……と自分に言い聞かせて安心していました。
 が、そのうちターゲットは配偶者と子どもがいない一人身の高齢者だと気づき、この人達の入所施設をネットで調べてみたら、いずれもかなりの富裕層だけが入れる高級な老人施設と判明。一刻も早くこの仕事から手を引かなければいけないという焦燥感が高まりました。
 というのも、身寄りのない高齢者の相続財産管理人や後見人が、その肩書きを利用して資産を略奪してしまう事件が頭の中をよぎったからです。
 そしてあの通帳――。給与の振込用として新規に作ったあの通帳は今どこにあるのだろうかと、言い知れぬ恐怖が胸の中に広がっていきました。

「間違った額を振り込んでしまったので、通帳と届出印を持ってきてほしい」とショートメッセージの連絡を受けたのは、初回の給料日前のことで、指定された喫茶店に入ると、私よりちょっとだけ年上ぐらいの女性が私に向かって会釈しました。
 私の雇い主のことを「うちの人」と呼んでいて、それがとてもしっくりきていたので、多分本当の奥さんだったのだと思います。
「現金で給与をお支払いしますね」だなんて申し出を素直に受け入れたのも、「手続きに必要だから」と言われるまま通帳を手渡してしまったのも、彼女が醸し出す生活感にほっとしたからです。
 その後は現金書留で給与支給されていますが、戻ってこない通帳のことは気がかりで、奥さんと連絡がとれないことも不安の種でした。
 そんな気がかりであった通帳が返ってきたのは、平日の夕方。
 夕飯の買い物へ行く前にはなかった茶色い袋が玄関ドアの郵便受けに投函されていて、袋の中に私の通帳が入っていました。
 深呼吸してから通帳を開くと、入金された多額の数字の合計が、先週までに全部払い出されているのを目にしたとたん、私はへなへなとしゃがみこみ、立ち上がることができませんでした。
 あの日、私が押印した払戻請求書に金額が書かれていなかった理由と、その背後にある得体のしれない組織。警察も誰も、本当の黒幕には辿り着けない――。
 トカゲのしっぽ。しっぽのはしっこ。その末端にいる自分。
 一体どれくらいの間しゃがみこんでいたのか……。私は震える指で「お年寄りからお金を搾取する犯罪に私は加担していました」とスマホに入力し滝田に送信。何とか立ち上がり、冷たいお茶をコップに注ぎ、一気にゴクゴク飲み干しました。
――ひどく喉が渇いていました。

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