小説

『月に願う』吉倉妙(『赤い靴』)

「で、彼はどこに勤めているの?」
「そういうことは、なかなか聞きづらくて……」
「そこは、ちゃんと押さえておかないと!」
「でも、今年いっぱいで今の仕事は辞めるらしいし……」
「ちょっと待って、友子!」
 もう聞くに堪えないといった感じで話を遮った悦子は、
「その人、本当に大丈夫?」 と、ごもっともな一言。
 それなのに妙なプライドが邪魔をして、私は悦子の忠告に耳を傾けず、人の気持ちに敏感な悦子もそれ以上彼について触れることはありませんでした。

 それからたった三ヶ月で、滝田と私は一緒に暮らし始めました。
 仕事を辞めて家賃を払えなくなった滝田には、私のところ以外に行くあてがなく、必要に迫られての同棲でした。
 1Kのアパートで、二人で暮らすには手狭でしたが、滝田とならば手狭な空間でも大丈夫でした。私より2つ年下で、拗ねやすいところや打たれ弱い面を、徐々に前面に出してきても、私は少しも気になりませんでした。
自分のどこにそんな情が隠れていたのか、私は無条件に彼の全てを受け入れ、いつまでたっても仕事を探す素振りもない彼への愛しさは増していくばかり――。世間の常識とは違っても、これが私の正論でした。
 そして大阪に行くと言い出した滝田について行くと決めた私は、直属の上司である園田さんに退職の意思を伝えました。
 なかなか梅雨が明けない、七月下旬のことでした。
「僕より早く岡村さんが退職してしまうなんて淋しいですよ」
 私の勤務最終日、園田さんが温かくそう言ってくださり、私は返す言葉もなく、深く頭を下げました。同じ課の皆も、この日の午後は誰も外出を入れず、勢ぞろいで私を送り出してくださいました。
 そんな別れの余韻を抱えて大阪へと向かった私は、すぐに仕事探しを始めたものの、正社員の仕事は面接の機会すらなく、彼がチェーン店の飲食店でバイトを始めましたが、一般的な同世代の収入からはかけ離れたものでした。
「こんなことなら来なければ良かった」と一度口にした私に、「一緒に来て欲しいとは言っていない」と言い放った彼。
 以来、彼の前で弱音を吐かないと決めた私は、どんなことがあっても貯金には手を出さないと心に誓いました。
 意外にも冷たい彼の一面に驚き、いざとなればあっさりどこかへ行ってしまえる人だと思えたからです。

 そんな悲しい決心を呑み込んだまま半月が過ぎた頃、滝田が私に仕事の話を持ちかけてきました。「戸籍と住民票の取得に従事した経験がある人を探している」と高宮さんに紹介されていたのだそうです。
 高宮さんというのは、複雑な家庭環境で育った滝田が身内のように慕っている知り合いで、彼が大阪に来たのも高宮さんの影響でした。
 私と出会った時、中古車販売の仕事をしていた彼には、車の名義変更に必要な住民票の取得経験がありましたが、戸籍については全くの未経験だったため、私にこの話が回ってきたという成り行き。
 個人情報を扱うのに面接がないなんて胡散臭いと思いましたが、自分がしっかりしていれば大丈夫という気持ちの方が勝り、私は自宅で戸籍や住民票の取得を始めました。

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