小説

『月に願う』吉倉妙(『赤い靴』)

 その母も、私が就職した年に、縁があってお付き合いしていた中川さんと再婚することになりました。中川さんにも二人のお子さんがいましたが、二人とも既に独立していて、これを機に富士山麓への移住を決めた中川さんと共に母は新天地へと出発していきました。
 こうして、母と暮らしてきた団地を引き払い一人暮らしを始めることになった私は、この先頼れるのは自分だけだと自覚しました。
 この確固たる自覚が私の弱点だったと、今となっては思うばかりですが、そのうちに私は、自分は最初から一人だったのではないかとさえ思うようになっていました。
 子供の頃、自分の父親のことを知りたいと微塵も思わなかった時点で、私はどこかもう、一人でこの世に生まれてきたみたいな感覚があったのかもしれません。

 そんな時です。私が滝田と出会ったのは――。
 場所は区役所の市民課窓口でした。
 高校卒業後、税理士法人に就職した私は、相続税や贈与税の申告に必要な戸籍だとか住民票を取得するのも仕事の一つで、大抵は郵送で取り寄せるのですが、この日は至急案件につき、窓口の記載台で所定の用紙に必要事項を記入していたのです。
 この時、私の隣で用紙に記入していたのが滝田でした。
「やべぇ、どうしよう」
 明らかに私を意識したひとり言の後、会社に財布を忘れてきてしまったと言う彼に、私は手数料分の小銭を手渡しました。
 彼の人懐っこい眼差しが、彼を放っておけない気持ちにさせたのです。何か楽しいことを企んでいるような黒目と、何か面白いことが飛び出してきそうな口元は、天性の愛嬌を持つ人特有の表情で、私は年齢や性別に関係なく、こういう人に弱いのです。
「今日は助かりました」とお礼を言う彼と連絡先を交換したのも、彼の愛嬌を信頼したからで、また会いたいとも思いましたが、半年もしたらおぼろげになっていく出会いなのだと思っていました。

 ところが後日彼から連絡があり、週末の仕事帰りに二人で食事をすることになりました。
 当日の朝、着るものに迷った私は、こんな風に誰かのためにお洒落をするのも悪くないなぁ、などと気分が高揚。食事をしたその日に、滝田を自分の部屋へ泊めたことは内緒にして、私は悦子に、彼とのことを打ち明けました。
 同期入社の悦子と私は、部署は違いますが、入社以来の、気心の知れた仲で、話し上手で聞き上な悦子といると、私もつられて饒舌になれるのでした。

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