小説

『甘橙』細田拓海(『檸檬』)

 私は立ち止まった。やってしまった。愚かだった。もう読者は分かっているだろう。そう、オレンジである。私は謎の魚に貪りつくあまり、あろうことかオレンジを食べ忘れたのである。あんなに輝いて見えていたオレンジは、いつの間にか私の視界から消えていた。
 その時、私の腹が恐ろしい声を発しながらうなり始めた。今まで姿を潜めていた不吉な塊が再び姿を現したのだ。しかも今度は、自分の意志ではどうすることもできない「反乱」であった。どうやらあのスキップがいけなかったらしい。
 私はそばにあった電信柱に駆け寄ると、周りの目も気にせず激しく嘔吐した。なんて醜い姿なのだろう。私は自分の情けない姿に恥ずかしくなった。これも全て、悪魔のように美味のあの魚のせいだ。定食屋にいた外国人の店員せいであり、丸善という名の定食屋のせい。道端で私を避けたババアのせい。私に酒を飲ませた高見沢のせい。涼子のせい。私のせい・・・
 その時、あるアイデアが閃いた。あの憎き定食屋、丸善にあるすべてのオレンジが、ダイナマイトのように爆発してしまったらどうだろう。きっと、丸善は木っ端みじんになってしまうに違いない。なんという美しい光景だろう。ついでに私の嫌いな本屋の丸善も爆発してしまえばいい。私は思わず「ハハハハハ!」と声に出して笑い、また少し吐いた。

 私は近くにあった自販機の水をなんとか購入し、その場に座り込んで飲んだ。呼吸を整え、しばらく目を閉じていると、反乱はようやく収まった。私はぼんやりした頭で、いつの間にか涼子のことを考えていた。そして、その言葉はふっと私の頭に浮かんできた。

 涼子は、オレンジだ。

 私は一時の欲に心を奪われるあまり、本当に大切なものが見えなくなってしまっていた。何故今、何故今になって後悔しているのだろう。あの部屋を飛び出した時には微塵も後悔などしていなかったのに。なぜ、もっと早く後悔しなかったのだろう。
 いつの間にか私は、声を出して泣き始めていた。涼子は私のオレンジだ。太陽のように光り輝くオレンジだ。私はやはり、今でもあの奇妙な魚ではなく、オレンジを愛しているのだ。
 その時、私の中に居座り続けていた不吉な塊は、不思議なことにすーっと姿を消した。私は電柱に掴まりながら立ち上がり、再び歩き始めた。ここがどこか見当もつかなかったが、そんなことはどうでもよかった。進まなければ。帰らなければ。電信柱で立ち止まる度にやはり少しずつ吐きながら、私は坂道を下っていった。

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