小説

『忘れない人』渡辺リン(『忘れえぬ人々』)

 センス良く植栽のされたカフェに一人の男が入る。名前は古賀武志。コンクールで賞を取り小説家デビューを果たしたものの、まだ単行本を出す計画はなく、その時のために書けるものを今はひたすら書いている。席に通されるとさっそくノートパソコンを立ち上げ、メニューを開いて目を落とし、注文を取りにきた店員に顔を上げた。  
「すいません、…この、エッ、グデ、ネック、ト…というのをお願いします」
「エッグベネディクトですね」
 若い女性店員はカツゼツとスピード感よろしく復唱し、続けて普通の速さで言う。
「かしこまりました。少々お待ちください」
 古賀は少しバツの悪そうな顔をしたが気を取り直して周囲を見回す。大きなガラス窓から陽光のふりそそぐ店内には春の香りが満ちていた。
「春だな。ブログに書くか」

 少しして、大きな荷物を持った、やはり30代と思しき男が入ってきた。男の名前は鍋島大樹。こちらは駆け出しの画家である。
「ちょっと荷物が多いんですけど…」
「よかったら向こうの壁のところにも置けますよ」
「…ああ…やっぱり心配なんで椅子に置きます」
 男はさっきの女性店員に先導されて古賀のテーブルの隣に来た。どうやら古賀と横並びのかたちで座り、大荷物を向かいの椅子の上に置きたいらしい。男は店員に見守られながら、長さのある荷物をなんとか収めようとしていた。
「置けますかね。でも下には置きたくないんですよね…」
 荷物は古賀の椅子の上にまで侵出しそうだった。
「あ、よかったら僕のほうの椅子も使ってください。くっつけちゃって置いてください。僕は使わないので」
 答えたのは当事者の男である。
「じゃあお言葉に甘えてすいません…。画材が入ってるので大きくてすいません」
「いえ」
「いらっしゃいませー」
 客同士が折り合いをつけている間に店員は新しい来店者を迎えに行った。ようやく荷物が落ち着くと鍋島も古賀と同じセットを注文し、そのあとには当たり前だが沈黙の時間が流れた。やがて先に注文をしていた古賀のテーブルに料理が運ばれた。

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