小説

『忘れない人』渡辺リン(『忘れえぬ人々』)

 息子は軽い咳払いをしてから、今から作文をほめてもらう小学生のように読み上げる。
「3月4日。最近よく耳にするエッグべネディクトなる卵料理を食べに、ある店に入ってみた」
 朗読はよどみなく行われる。もはやラフスケッチでもメモでもないちゃんとした原稿だ。
「そこは最近できたオシャレな店で一人で入るには勇気がいった。こんな時に誘うことができる気の置けない友人がいたらと思う自分がいた。しかし自分にはこれがいないのである。さて、卵という庶民的食材を主役にした料理につけられた勿体ぶったネーミング。メニューの写真はいかにも春を感じさせる様子をしている。まずは注文。この初めて口にする小難しい名前を自分はスムーズに言えるのだろうか。店員が来た。いよいよ緊張の瞬間である。果たして僕は言った。エッ、グデ、ネック、ト。そしてその時の20代前半と思しき女子店員の語調である」
 ここからの彼は講談師のように緩急豊かにまくしたてる。
「『エッグベネディクトですね。かしこまりました』――まるで、小難しい名前をいかに自分がすらすら言えるかを誇示するかのように明らかにエッグベネディクトだけが早口なのである。緊張のあまりに言いよどむ客をいちいち心の中
でバカにしているのではないのかと思うぐらいの、とくに間髪のない『トと!』
 相手は客なのだからわざと少しぐらい言いよどむ配慮があってもおかしくないのでは? とさえ思う自分だった。しかしその時に僕は考えた。いや、もしかしたら彼女自身も研修やら何やらでこの名前を言うことに相当泣かされたのかもしれない。練習と実践を重ね、その域に達したのかもしれなかった。結果その反動でこんなS口調になってしまったのかもしれない。であれば仕方のないことなのだと、ちょっともやもやしながらも僕は思った。だってとりあえず彼女はどの客に対しても平等にそうであったわけだから」

「…ん?」
 結論を待てずに無遠慮に声を発した母にかぶせるように彼は続けた。それもこれ以上はないほどの悦に入った口調で。

「すなわちその女性店員が、僕にとって、忘れない人、の一人になった」
 エピソードはそれで終わり、その時出会った画家の鍋島の話は一つも出てこなかった。

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